トタン

□Re:start
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窓の外に立っていても、中に入る勇気が出なかった。
カーテン越しにオレンジ色の灯りが透けている。きっともう安室さんは帰ってきているのだろう。



どんな顔をして、というよりもどんな気持ちで安室さんに会えばいいのか分からない。今までどんな風にこの部屋に入っていたっけ?猫の姿に慣れつつあって、まるで自分の家のように、当たり前のようにこの家に出入りしていたけれども。

一度人間に戻って、高くなった目線も今は低い。地面が近いことに始めこそ違和感を感じたが二回目だからかすぐに慣れた。人間に戻った時は猫の姿が嘘のようだったが今では人間に戻った時のことの方が夢のように感じる。いや、夢だったということにしてしまいたいのかもしれない。…人間に戻ってしまったから、そしてその姿で安室さんに会ってしまったから、私の気持ちはこんなにも乱れているのだから。

ヒトから猫に戻った時、哀ちゃんは数点だけさっと調べ、すぐに解放してくれた。帰れ、とも言わなかった。無言で私を背にパソコンを触っていたが、その背中には私を気遣ってくれる姿が見て取れた。

カーテンの隙間からソファーに座っている安室さんが見えてどきんと心臓が熱く鳴った。一瞬、息をすることすら忘れそうになる。安室さんはコーヒーを啜りながらテレビを見ているらしかった。その横顔は作り物のように端整だ。金色の髪が透明に仄かに息遣いによって揺れていて、この人はヒトで、生きているんだと実感した。

駄目だ。

頭をぶるぶると振る。駄目だ、駄目だ。安室さんが格好いい。ずっと見てられる。ずっと見ていたい。その綺麗な顔も、浅黒い腕も、色気が漂う首筋も、子犬の様な髪も、すべて美しくて見ていたい。だけど同時に苦しくなる。だって。どれだけ近くてもそれが手に入ることはないから。だって。…私はネコだから。
もうここには戻らない方がいいのかもしれない。そんな考えが頭を過りかけたとき、安室さんが不意に視線をこちらに向けた。碧い瞳と目が合って、逃げるのなら今の内なのに身体が動かなくなった。
安室さんが立ち上がりこちらに歩いてくる。何も難しいことじゃない。くるりと踵を返して哀ちゃんの家に向かうだけだ。そうすれば辛い気持ちになることも、幸せな気持ちになることもなく、何も起こらない、退屈だとしても平和で平凡な日常に戻れるというのに。どうして。


「おかえり」


どうして私は自ら辛い道を選んでしまうというのだろう。






安室さんは私を膝の上に乗せ、時折頭を撫でながらぼおっとしている。
それはとても緩やかで贅沢な時間。だけど私の気持ちはそわそわと落ち着かない。逃げ出したいような、だけど安室さんの体温に触れて嬉しいような、複雑な気持ちが心と頭を行ったり来たりしていて、ふりふりと勝手に揺れる自分のしっぽを見つめるしかなかった。
私はいつまでこうなんだろう?
いつまでこんなどちらつかずな気持ちでここにいるんだろう。この姿のまま生きていくんだろう。
答えの無い疑問が微睡と一緒に襲い掛かってくる。


空気が変わったのは、安室さんの携帯が鳴ったからだった。安室さんは一瞬遅れてポケットからスマホを取り出し、電話の相手を確認する。
もしもし、どうしたんですか。梓さん。
その一言を聞いた途端身体が鉛のように重くなった。

やっぱり駄目だ。私は此処にいられない。


「ああ、そのことでしたらマスターのテーブルの…はい、一緒に入れていますから。…はは、あまり使うものでも無いですしね。仕方ないですよ」


そんな立場ではないことなんて重々分かっているけれど、安室さんが女の人と話をするところなんて見たくも聞きたくもないし、そんなことをいちいち気に病んでいたら身が持たない。傍にいたら、それだけ苦しいことが見えてくる。永遠に私の入ることができない余地。


出ていこう。
醜い気持ちが心臓から熱く広がっていきそうで、ぱっと身体を起こす。安室さんが引き留めるように頭を撫でつける。駄目。やめて。逃げさせて。


「……タマですか?元気ですよ。…えぇ。でも、嬉しいものですね。飼っている訳ではないですがこうして家に戻ってきてくれるのは」


上げたお尻が止まってしまう。甘い痺れにも似た動悸がじわじわと広がってくる。


「この子、警戒心が強くてあまり人に懐かないんですがね。有難いことに僕には気を許してくれているみたいで…。あまり動物を家に縛りつけるのは好きではないので放し飼いにしてますけど、…ええ、僕の癒しでもありますし…」


安室さんの手は温かい。撫でる仕草がより一層優しげになったような気がする。動けない。安室さんは狡い。心が弱ってて苦しいときにそんなにも優しい言葉を投げかけてくれるなんて。

安室さんは手短に電話を切ると、じっと私を見つめて愛おしそうに私の頭を撫でた。その瞳はとても柔らかくて、今この瞬間の安室さんはネコである私だけのものだと思ってしまった。
その後は私を膝から降ろし、シャワールームに向かったが、私はソファーの上で固まったまま動けないでいた。

どうしたらいいのかなんて分からない。
何が正解かなんてもっと分からない。
だけど。

ソファーの上で丸くなる。安室さんの残り香が胸を甘く満たしていく。

手放せない。手放したくない。麻薬にも似た安室さんの匂いと体温。
それは私が猫で、タマであるからだけれども、それでも。
安室さんが私を見てくれるのなら。
優しい手で頭を撫でてくれるのなら。
甘い言葉を投げかけてくれるのなら。
暫くは猫のままでいいんじゃないかと思う。






190317

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