トタン

□曇り空
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そういう日は、何故かいつも唐突に、偶然に、けれども必然的にやってくる。



「はい、…えぇ、僕がですか。第8ラボの跡地に?…別にいいですが、あの場所のことは僕はあまり知りませんよ」


いつもの如くお昼ご飯を食べ、お腹がいっぱいになってそのままうとうとと自分の眠りの世界へと入ろうとしていた時にその瞬間はやってきた。
どうしてあの電話をしている安室さんの声が私の耳に飛び込んできたのかは分からない。いつもなら安室さんが多少誰かと電話をしていようが、物音をたてて行動していようがあまり気にならず眠りの世界に堕ちていけるというのに。


「調査、ですか…。分かりました。僕も直ぐに出ますよ。…ジン」


その言葉はやけにはっきりと、鋭く重みをもって私の耳に飛び込んできた。威嚇をするように耳が後ろへと引っ張られ、目はみるみる吊り上がり、毛が逆立っていくのが分かる。
安室さんの言葉を反芻する。どういうこと?安室さんは「ジン」と電話している?安室さんはあいつらの仲間なの?いや、でも、まさか、そんな。
ばたばたと準備をしだす安室さんをじっと息を潜めて観察する。安室さんは厳しい表情でてきぱきと準備をすると、最後に戸棚から拳銃を取り出した。慣れた手つきでそれを軽く手入れし懐に直す。この人は何者なんだろう。どくどくと心臓の音が耳の奥で大きくなるのを感じた。

安室さんはジャケットを羽織り、くるりと部屋を見渡すと私の方へと近づいてきた。私は安室さんを初めて見る「何か」にように警戒し、身を固くしてその成り行きを見守った。


「いってくる」


目の奥に強い意志を宿したまま、安室さんは小さく呟いた。そして大きな手で私の頭を優しく2、3度撫でるとくるりと踵を返して部屋を出ていった。緊張感から解き放たれた部屋で私は大きく溜息をついた。

なんだったのだろう。さっきのあれは。

次々と浮かぶ安室さんの顔。ジンと確かに電話越しの相手に言った。第8ラボとも。第8。その言葉も確かにその「ジン」という銀髪から聞いた言葉だ。私をあの監獄へと閉じ込めた銀色の髪を携えた悪魔。安室さんがその男と繋がっている?
哀ちゃんの部屋のパソコンに映し出されていたレポートには「シェリー」と記されていた。哀ちゃんは元々どこかの研究員だったと言った。そして、哀ちゃんのいた組織の他の研究所で私がこの身体になった薬の研究が進められていた。
安室さんは私を拾ってすぐくらいの時、誰かと電話をしていた。電話の相手は確か「ベルモット」と言っていた。
いつか、安室さんが苦しそうに寝言で「スコッチ」と呟いていた。

…すべて、お酒の名前だ。無意識に爪を地面に立てていた。恐らく仲間内だけの名前。…コードネームというやつだろう。そして、どういう訳か安室さんはその人たちと繋がっている。もしかしたら…仲間なのかもしれない。

不意に立ち上がり古新聞をまとめてあるクローゼットへ向かう。確かコナン君と赤井さんが「朝刊に薬品会社が爆発したという記事がある」という話をしていた。そしてそこが人体実験施設だったとも。もしかしたらあの時の新聞が残っているかもしれない。その記事を探そうとクローゼットを開けようとした瞬間、安室さんの少し背の高めの机が面している壁にいくつかの新聞記事の切り取りが張られてあるのが目に入った。私はそれに吸い寄せられるようにして机の上へと登った。

案の定、そこにその記事はあった。港沿いであるという場所を確認して窓から外に出て、哀ちゃんの家へと向かう。

確かめなくちゃ。

自分にできることなんてたかがしれているし、命の危険だとか考えだしたらキリがない。
でもここでじっとしていられる訳がなかった。もし、もし…安室さんが奴らの仲間なら、私は一刻も早くここから立ち去らなければいけないのだから。




哀ちゃんは始めの方こそ渋っていたが、私のただならぬ空気を察してくれたようだった。試作品2号を黙ったままミルクに溶かし、無言で私の前へと差し出す。

ミルクを飲み切るとやはり前回のように身体が熱くなって、激しい痛みと息ぐるしさが襲い掛かった。でも、私は行かなくちゃいけない。

ジンと呟いた安室さん。組織の仲間かもしれない安室さん。
だけど。
安室さんはいつだって優しかった。怪我をしていた私を拾ってくれた。温めてくれた。ご飯をくれた。出迎えてくれた。
大きな安心する手で私の頭を撫でてくれた。
だから、私はいかなくちゃいけないのだ。


「どこに行くのかは聞かない。ただ、二つだけ約束して」


この間借りた服に再び袖を通す。マスクをつけ、身体が思い通りに動くのかどうか、軽く動かしてみる。


「一つ目は、猫の姿に戻る時は必ず誰にも見られないこと。二つ目は」


分かってる。というように頷く。試作品はこの間よりは長く保つそうだが時間に保証はできないらしい。身体が熱くなってきたら、どんな状況でも、どんな場面でも逃げなくちゃいけない。そこまでが私のタイムリミットだ。


「必ず生きて帰ってくること」


返事はしなかった。できなかった。哀ちゃんもそれ以上は何も言わなかった。
曇り空が重く広がっている。しんと冷えた空気の中を、外の世界へと私は走り出した。


「…どうか、気をつけてね」


哀ちゃんの心配するような、どこか哀しそうな声だけがいつまでも耳の奥で鳴り響いていた。






190325

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