トタン

□雪
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雪、というのはどうしてこんなにもすべての音を奪っていくのだろう。
うっすらと持ち上がった瞼のすき間から除く瞳がちらつく雪を捉える。

……寒い………。


できるだけ小さく丸まってみるのだが尋常ではない寒さに震えが止まらない。
擦り切れた背中の傷も痛みがより増してくる。瞼が上がらなくなる。無音の世界。

帰らなくちゃ。あの家で安室さんの無事の姿を見て迎えてあげなくちゃ。「いってくる」と言って出て行った安室さんに「おかえりなさい」って伝えなきゃ。
でも…もう、身体が。

寒い……。


体温がどんどん失われていく。駄目だ、猫の体だというのにいつもと違う。もっと毛布にくるまれているみたいな、外気が寒くても平気な体だったのに。
降り積もる雪は音も、体温も、体力も、すべてを奪い去っていく。いやだ、まだ…死にたくない。自分の中に未だそんな感情が残っていたことに驚いた。






不意に、ふわりと躰が宙へと持ち上がった。体温が体温へと伝わり少しだけ寒さが緩和される。懐かしい匂いがする。…誰だったっけ?会いたくて会いたくて、堪らない人だった…ような。
頭は殆ど機能を停止している。考える余力を残していない。瞼が鉛のように重く、目を開けたいのに開けることができない。
意識が闇の奥へずぷずぷと沈んでいく。体の痛みは意識の片隅にこびりつく。まどろみの中へ、深く、深く潜っていく。






ぴりっとした痛みと、鼻につく消毒液の匂いが私の意識を無理やり覚醒させた。声を出したかったが喉がカラカラで上手く声が出なかった。決して軽くはない瞼を力づくで持ち上げると安室さんの顔が近くにあって、思わず息を呑んだが安心した気持ちと共に大きく息を吐き出した。

良かった。安室さん…生きて帰ってきた。安室さんが微笑む。なんだかとても身体が温かい。魚の良い匂いがする。安室さんが優しい顔をしている。ただいま、陽菜。ええ、おかえりなさい。あら?何だろう、今感じた違和感は?まぁいいか、なんだかとても気持ちがよくて幸せなんだもん。安室さんへと手を伸ばす。肌色の若い女の手。ん?ここでまた違和感を感じる。なんだろう?私の手、こんなに自由に伸ばせていたっけ?もっとこう…毛深くて、思っているより短くて、そう、まるで猫みたいな…。
……猫?

ぱっと顔を上げると安室さんの姿は遥か彼方遠くまでいってしまっていた。みるみるうちに安室さんが小さくなる。いかないで、ちょっと待って。私は猫なの。そんなに遠くにいってしまったら私の短い手は届かない。

安室さんがふわりと微笑む。優しくて、慈愛に溢れた柔らかな笑み。ゆっくりと口を開く。私の大好きな声。

もうすぐ着くから待っててね






「陽菜さんっ!」


『フニャ』


目を開けたら薄暗い地下室が広がっていた。哀ちゃんが私の様子を見てほっと胸をなでおろす。あれ?安室さんは?きょろきょろと見渡すと皮膚が動いて背中の傷がじんじんした。


「よかった。生きて帰ってこれて。あなたがトタン屋根の下で血まみれで倒れているのを見たときは本当に息が止まるかと思ったわ」


ここはどこ?哀ちゃんの実験室。じゃあ、さっきまでのあれは夢?安室さんはどこ?
哀ちゃんは私の顔を見て何を言いたいのか察したようだった。瞳を下げて私の頭を撫でた。


「安室って男なら大丈夫。生きていたわ」


安室さんが生きていた!なら、私は早く帰らなきゃ。体はまだまだ重たいがここからあの家への距離ならなんとか帰れるだろう。だけど、立ち上がろうとした私を哀ちゃんは悲しそうな目で押さえつけた。


「駄目よ」


哀ちゃんの顔を見る。哀ちゃんが視線を逸らす。


「もう、これ以上あの組織に関わっちゃダメ。もちろん、あの男の人もそう。見たでしょ?あなたが関わってしまった組織の凶悪さを」


でも、安室さんは。哀ちゃんはすべて分かっているかのように首を振った。


「知ってるわ。あの男の人は悪い人じゃない。でももう何かを感づき始めてる。具体性はないけれど、何かわからない何か。それに…」


哀ちゃんは酷く傷ついたような瞳をした。哀ちゃんはたまにそういう顔をする。押し殺した哀しみ。


「このままあの場所にいてもあなたが辛くなるだけよ」


分かって。そう言い残して哀ちゃんは部屋から出て行った。ダクトが完全に閉じられている。哀ちゃんは本気で私を安室さんと会わないようにしているのだ。

安室さんに会えない?二度と?

そう考えると胸がぎゅっと痛んで苦しくなった。でも、哀ちゃんの言いたいことはわかる。私は今日死の恐怖を身に染みて感じた。実際身体もボロボロだ。できれば二度とあんな思いはしたくないし、今は外に出るのも少し怖い気がする。
ジン。あの男の姿を思い出すだけで毛が不安で逆立つようだ。暗い部屋。迫りくる足音。あの頃の恐怖がフラッシュバックする。そして、また今日もあの恐怖を。

でも、のぞき込んでくれたのは安室さんだった。あの瞬間。手を差し伸べてくれた優しい安室さん。胸が弾けるように熱くなる。でも…もう、会えないの?

いや、きっと。

脱走するチャンスはある。今はまだ身体が思い通りに動かないけれどここで十分体を癒して隙さえつけば、きっと。

まずは体調を整えよう。
ぎい、と音を立ててミルクを持った哀ちゃんに近づく。ミルクを置いて優しく頭を撫でてくれた哀ちゃんに心の中でごめんねとつぶやいた。






190418

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