トタン

□トタン屋根の下で
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『ああ…はい、そこ、右。ここで降ろしてください』


「こんなところでいいのか?」


『はい。ちょっと…見ておきたくて』


「そうか。では1時間後に駅前で拾う。時間厳守でな」


『はい。ありがとうございます。…風見さん』



車を降りると湿った風が頬を撫で上げた。まだひんやりと冷たい風だけれど、その後ろで確実に春が近づいている気配がする。
1時間近く車に乗っていたからか、身体が強張っていた。ひとつ大きく伸びをする。広いようで、狭いような世界を見渡す。なんだかずいぶん久しぶりに感じるな。…米花町。

哀ちゃんは、コナン君は、赤井さんは、…………あの人は、元気だろうか。

もうすっかり馴染んでしまった人間の目の高さに戸惑うこともない。あまりこの地でうろうろするのは拙い。きょろきょろと辺りを警戒してから私は米花町を――実に、1年ぶりの米花町を噛みしめるように1歩1歩歩き出した。





全てが終わった日。そして、総てが始まった日。
よもや猫であった期間は夢のように感じるけれど、それは私の身体を確実に蝕んでいた。
私がどうして完全に人間に戻れたのか、詳しいことは教えてくれなかった。あの場所で力尽きた私はほとほと死にかけの状態だったらしく、凍傷やらなんやらと酷いありさまだったらしい。目が覚めて白いベッドに横たわっていた時の気分の悪さといったら!身体中チューブで繋がれ血液を抜かれ、自分が生きていることが不思議なくらいだった。
ようやく話せるくらいに回復した時には(絶対安静が原則ではあったが)春は過ぎ、外は夏になっていた。病室に風見さんが入ってきたときは人相の悪い男だと思ったが、その時はじめてここが公安警察の病院なのだと知った。そして、ぼやかしてはいたがここに入って生きているのは哀ちゃんとコナン君のお陰だとも。

そこから、リハビリを重ね一人で生きていく力をつけるのに更に半年かかった。そして、今。あの組織の中で私は死んだことになっているらしいが米花町は危険だということで隣の県まで引っ越すことになったのだ。
風見さんが言うにはここから先はもうあまり面倒を見られないらしい。というより、他県に行ってまで公安警察とコンタクトをとっていると逆に目をつけられてしまうと。
つまりは、私は知らない場所で、知らない人たちの中で、1から人生をやり直さなければならない。そして私はあまりそのことに大して希望も絶望も感じていなかった。

私はどうして生きているんだろう。そう考えることは私を生かしてくれた沢山の人たちがいる限り罪だということも分かってる。けれど、そう考えずにはいられなかった。ここまでして生きてなんの意味がある?…なんて。贅沢なのかな。生きてるだけで幸せなんだろう。
だけど私にはもう、親も友達も、何もかもいないのに。


ぐるりと米花町を一周する。短かったけど、色んなことがあった場所。猫であったときはとても辛かった。痛い思いも、怖い思いもした。だけど…私の人生で一番輝いていた時期だと思う。

きっともうこの先あんなに楽しくて、辛くて、輝いていた時期なんてないんだろうな。


ぶらぶらと当てもなく歩いていると、重苦しい空からとうとう雨が降り出した。傘を持っていない私はどこか雨宿りできる場所を探す。ふと目に入るトタン屋根の廃屋。吸い寄せられるようにそこに向かう自分に少し笑いそうになった。やっぱり私はここに帰ってきてしまうのか。

1年経っていたから取り壊しでもされているかと思ったが、意外にも中身も外見もあまり変わっていなかった。相変わらずカビ臭い。雨の音がやたらと反響する。湿った匂いがどこからともなく漂ってくる。

懐かしいな……。

ここ1年で一番穏やかな気持ちに包まれていることに気がつく。本当に、色んなことがあった。最後にここにこれて良かった。

目を閉じると様々な景色が浮かび上がる。雨の音。陽だまりの中の微睡。哀ちゃんの地下室に通じる狭いダクト。煮干しの匂い。塀の上からいつも見ていた景色。
もう二度と見ることも、感じることもない。

あの人のこと。

ふ、とずっと抑えていた気持ちが溢れてきそうで慌てて深呼吸をする。駄目、駄目。こんなことは考えない。もう忘れなくちゃいけないのに。考えない、考えない。こんなどこまでも不毛な、無利益な、なのにとても厄介な気持ちは。

そろそろ駅に向かわなくちゃ風見さんの小言が始まっちゃう。と無理矢理別の思考で頭を埋める。ぼおっとしてると感傷に浸ってしまいそうで怖かった。もう、こんな場所にきてしまったからだ。やっぱり後悔。もう、雨が酷い。


じゃり、と土を踏み鳴らす音がする。誰かが立っている。やば、こんなところに女の子が一人でうろうろしてるなんて不審だと思われたらどうしよう。とりあえずまだ相手には気づかれていないようなのでさりげなく暗闇に紛れながら入り口に近づこうとする。と、足元にあったなにかに躓いてしまった。金属のなにかのようで、からんからんという音と何かが散らばる音がする。
その人は私がいることに気がついたようではっとした仕草を見せ、こちらに近づいてきた。え、何私何を蹴ったの?足元を見るとそこには銀のトレイと…動物の餌?


「ああ、すみません。僕が勝手に置いたのです。どうか気になさらず」


心臓が、止まったかと思った。いや、実際に1秒くらいは止まっていたのだと思う。暗がりで顔は見えないけれど、その声は。そこにいるのは。


「…?大丈夫ですか?」


『あ……あぁ、え…はい』


自分が逃げ出したいのかどうしたいのか分からなくなった。やだ、指が震える。だって、まさか、ああ。どうしよう。どうして?


その人は私が散らかした餌を片付けて、新しい袋から銀のトレイに餌を継ぎ足した。はやくここから離れなくちゃいけないって分かっているのに、気がつけば目がその姿を追っていた。不審に思ったのか、独り言のように話し出す。


「いやね。…1年ほど前に世話をしてた子が突然いなくなってしまって。こういうことするのは良くないって分かっているんですけど…。よくこの辺をねぐらにしていたみたいだから、つい、ね」


指先の震えが全身に伝わる。息をするのを忘れそうになる。心臓がどくどくと波打って、その場に倒れそうになるのをなんとか踏みとどまった。


『そ、う…ですか』


何かを話さないとと思い絞り出した声は情けなかった。やだ、とても胸がつまって苦しくなる。吐き出してもいい?私、ずっと我慢してた。感じないようにしてた。だけどもう止められない。苦しい気持ちを今なら外にぶちまけてしまえる気がする。この暗闇だ。どうせ姿なんて見えない―――。


『あ……』


目の奥が不意に熱くなって、すうっと温かいような、冷たいような液体が頬を通った。ああ、これだ…。ずっと吐き出せなかった。ずっとずぅっと我慢してた。あの頃からずっと私、…泣きたかったんだ。なんで今こんなにも涙が溢れているのか分からないけれども。

声を殺して雨の音に紛れ、私はひたすら涙を流した。あなたに気付かれないように、あなたの前で、ただ、ひたすらに。


大きく深呼吸をする。


『きっと…その猫も。帰ってこれなくても、どこにいっても、あなたのことを想っていると思います』


「…だったらいいですね。でも、僕は何もしてあげられなかった。その子はいつも怪我をしていた。だから…僕の元には帰ってこなかったんじゃないかって今でも思うんです」


『そんなことない!きっと…きっとその子も思ってます!色んなことをしてくれて、教えてくれて、ありがとうって』


ふっと彼が笑う。優しい笑み。


「ありがとう。そう言われるととても気が楽になります」


雨の音が弱くなった。外が徐々に明るくなってきている。そろそろ行かなくちゃならない。涙を拭う。


「不思議な猫でした。いつでも僕を助けてくれた。僕が苦しいときは傍にいてくれました。慰めてくれました。世の中には不思議なことが沢山ありますね」


『…まるで人間が猫になったような?』


「…ええ、本当、そんな子でした」


『雨、止みましたね。私…引っ越すんです。ここは思い出深い場所でした。だから最後に見ておきたくて。でも、もう…行かないといけません』


もう、いかなくちゃ。ずっとここにいたい。だけど、雨が止んでしまった。そろそろ風見さんから催促の電話が来る頃だ。震える足を前に踏み出す。新しい世界が待っている。


「……?僕、猫だなんて言いました?」


振り返りたい。だけど、振り返らない。外の世界が明るい。暗闇から天明へ。入り口付近に立つ。


『世の中には不思議なことが沢山あります』


ああ、やっぱり涙が出てしまう。こんな顔見せられないよ。情けない顔。でも、会えて良かった。生きていてよかった。ここにきてよかった。…安室さん。大好きな、大切なあなたに。


さようなら、青空が見える。ありがとう。もう行かなくちゃ。歩き始める。涙が止まらない。さようなら。


「いつでも!!!」


安室さんが声を荒げた。歩みを止める。ぴちょん、と雨の音が響く。


「君の大好物の煮干しをもって、会いにいくから!」



一際大粒の涙が頬を伝った。振り返る。私は泣きながら、だけど、久しぶりに笑った気がした。安室さんの顔を初めて正面から見た。安室さんも伝えきれないような顔をしていた。歩みを止める訳にはいかないけれど。でも。


『…ッ!、トタン屋根の下で待ってる。ずっと、ずっと……!』


そして私は歩き始めた。雨は止んだ。次は青空が広がるだろう。

ポケットに忍ばせていたキャットフードを空に投げ、ぱくりと食べる。喉の奥からは、懐かしい味がした。









Fin.

190623

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