短編2
□殺し屋と警察官――十日月
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雲が出てきた。
「俺もさ、仕事だからさぁ。本当はこんな可愛い子をゴーモンとかしたくない訳よ。だから正直に答えてくれよな」
もう少しだ。もう少しで月が雲に隠れる。だけど、気の高ぶりを気付かれてはならない。瑠璃はこのタイミングで浅く深呼吸をした。まるでこれから聞かれることに心して答えるぞ、という風に、可愛らしく、意気込んで。
尤も、本当はこの男の聞きたいことなんて毛の先程も興味が無いのだが。恐らくこいつらもただの雇われだ。こいつらの雇い主が本当はどんな目的で、何を知りたくてこいつらを雇ったのかは、私は勿論こいつらも知らないのだろう。
「回りくどいのは無駄そうだからな、聞いて来いと言われたことだけ聞くぜ。質問は2つだ」
それにしても、雇い主は誰だろう?こんな職業だ、人から恨まれることはあっても心から感謝されたり好まれるものでは無いというのは重々承知しているが名指しで私から情報を?殺し屋はあくまでビジネスとして仕事をやっているから、有益な情報を持っている殺し屋というのは少ないものだがそれを知らないということはこちらの界隈の人間では無いのだろうか?でも、私のことを知っていた、そして私の依頼を操作した、…そんな人間が、こちら側の人間では無いと?
「1つめ。【エクリプス】を知ってるか?」
『…………?』
聞き慣れない言葉だったため、素直に首を傾げる。エクリプス?なにかの組織だろうか?それとも何かを指す隠語?
『知らないわね。聞いたこともない。組織?それとも地名?』
ごっ、と再び後頭部で金属が骨に押し付けられる音がする。無駄口は叩くな、ということらしい。
「2つめ、【最近何か変わったことはないか?】」
『はぁ?』
これまた素っ頓狂な質問だ。言っているほうもあまり意味が分かっていないようで、質問しておきながら小首を傾げてしまっている。
『質問の意味が分からないわね』
「俺も分からん、が仕方ないだろう、そういう任務なんだ」
『変わったこと、なんて特になかったと思うけど』
「そうか、残念だ」
目の前の男がちらっと視線を下げ、憐れむような顔をした。腰から下げていた拳銃を引き抜き、私の方へその銃口を向ける。
『残念ね、これじゃ依頼主に良い報告はできないわね』
「その通りだ、知りませんでした、何もないそうです、なんて言ったらそんなの報告できるかってまたボスにどやされちまう」
もう少し。あと少し。
空では雲が怠慢に動いている。
「だからさ、せめて手こずらさせないでくれよ。避けられると掃除も大変だしさ、面倒になると今月のボーナスカットだ」
『そう、…私も残念だわ』
静かに大きく息を吸う。新しい空気が爪先から頭のてっぺんまで入れ替わっていく。血は流れ続けていく。冷徹で、非情な殺し屋の血。
「殺し屋でも死ぬのは怖いってか?心配するなよ、苦しまないように逝かせてやるからさ」
月が雲に呑み込まれていく。昏い夜が更に風船の中に影を落とす。世界は闇に包まれる。自分の白い手だけが、止まった時間の中別の生き物のように滑らかに、いつもの軌跡を辿って動き出す。
『あなたのボーナス、カットさせちゃうことになるわ。…悪いね』
一息に話し終えるが速いか、右手で拳銃を引き抜きそのまま右の肘で後ろの男の鳩尾を強く付いた。頭が拳銃という圧迫感から解放される。後ろの男はそれでも反射的に拳銃を構えなおしたがそれよりも早くその右腕に蹴りを叩き込む。みしり、と男の骨が浅く沈んだ。折れてはいないがもう拳銃を支えられるほどの力は入らないだろう。
目の前の男の顔がヒステリックに歪んだのが目に入った。だがそれはほんの一瞬の出来事で、私の拳銃を男の脳髄を正確に、一ミリの狂いもなく打ち抜いた。男は「あ」という呻き声にも似た声を出した気がするが、もう二度とその続きを聞くことはなかった。
ぴかりと光った銃口が目に入った時には遅かったかもしれない。男の持った拳銃が暴発する。辛うじて避けたがそれでも直ぐに左腕に鋭い痛みが走った。冷や汗が喉元を過ぎる。
それは、本当に月が雲に隠れている間の、一瞬の出来事だった。次に月が世界を見つけたときにはひとりの男は死に、もう一人の男はその刹那の出来事を信じられないといった顔で眺めていた。立っているのはひとりの女だけ。女は身軽にもう一人の男に近づく。拳銃を構えながら。
「た、頼む…殺さないでくれ。頼む…」
『……………』
懇願しながらも、半ば諦めて男は目を瞑っていたが、いつまでたってもその瞬間は来ない。恐る恐る目を開くと月が女を赤く照らしていた。女は左腕を抑え、顔を歪めている。それをチャンスだとか、考えるよりも先に本能に近い部分で男の身体は動いていた。相手を殺すとか、この先のこととか、そんな絡まった考えはない。
ただ、生きるために。
男は女を力いっぱい突き飛ばした。もともと小柄な女の身体はふらふらと後ろに吹っ飛んで、屋上の、錆びれたフェンスを突き破って―――。
「……だから、嫌な予感がするって言ったんだ」
『あ………』
瑠璃はふと我に返ったような気分になった。ぶらぶらと力なく揺れる左手を滴る血がビルの群れの間に落ちていく。重い頭を無理やり上げると眩しい月が目に入った。そして、その月に透ける金髪の髪も。
がっちりと掴まれた右腕が、自分がまだこの世にいる証だと知った。どうやらこの男は私があの世に行くことを許してくれないらしい。
浅く息を吐いて、一気に引き上げられる。地面に足をつけると突然重力が舞い戻ってきたような心地がした。
「間に合ってよかった」
『……どうして?』
「いつもは君の「仕事中」は邪魔しないんだけど、今日はどうしても気になってね。僕が行くことで拙いことになる可能性もあったけど…でも、行かなくちゃいけない気がして」
ひとりごとのように呟きながら彼は私の左手をジャケットできつく縛った。質の良いジャケットがみるみる血に染まっていく。
『ちょ、これじゃ…あなたの服が』
「いいよ、こんなの、大したことない」
ごそりと人が動く気配がして漸く二人はもう一人人がいることに気がついたようだ。男は逃げ出したいようだが足があまり動かないらしい。二人の目が自分を見つけたことに気がつくと、殺される恐怖が蘇ったのか喉の奥から声にならない声を漏らした。
「どうする?…彼」
『私に決めさせるの?』
彼の目は真剣に私を見ていた。初めて会った時と同じ目。試すような、興味があるような、好奇心と複雑な想いを抱えた目。
「これは君の仕事の管轄だ」
『…そうね』
痛む左手に、彼の射抜くような目に、必死に生きようとするひとりの男に溜息を吐く。私はごとりと拳銃を地面に置いた。
『私の仕事はあの男を始末することで、こっちの方までは依頼に入ってない。…私は殺らない』
彼は頷くと怯える男に近づき一言二言声をかけた。男は何度も頷き、脱兎のように屋上を飛び出していく。緊張感がほどけたような空気が急に流れ出した。
…私も甘くなったものだ。自分の命を狙った人間を逃がすなんて。
この判断が正しかったのか、後に自分の首を絞めるかもしれないと思いながらも瑠璃は余り悪い気分ではないことに驚いていた。
殺し屋としてはこの選択に答えを点けるのなら思い切りバツだろう。バツ3つでも足りないくらいだ。彼は私の顔を見ているし、改造した拳銃やその忍ばせた場所を広められたりでもしたらリスキーなことこの上ない。殺し屋が「名前」と「顔」を一致されるのはかなり危ない状況であるが、それでも。
『あーあ、もう、ホントやんなっちゃうな。貴方の甘さが移っちゃったかも』
今までの緊張感を思い切り吐き出すように空に向かって声をあげる。彼はそんな私を穏やかに見て笑う。
「お疲れさまでした」
『この先私の命が狙われたら貴方のせいだからね』
「その時はちゃんと僕が守りますよ」
『残念だけどずーっと守られなくちゃいけない程私は弱くないの』
月が出た。貴方の髪は、月が照らすと透明に輝いていて少しだけ綺麗で、羨ましいなとも思った。
「どうかしました?」
『なんでも』
疲れているし、いつまでも余韻に浸っている訳にもいかない。重い腰を持ち上げて屋上を横切る。彼は少し距離を置いて、私の後ろをついてくる。くるりと振り返るとやはり彼の髪は月に綺麗に照らされ、愛されていた。
『助けなんていらないけど。だけど。今日は助かったわ。ありがとう、零』
私がそう言うと、彼は出会ってから今までで一番嬉しそうな笑顔を見せた。
続きます
190917