短編2
□殺し屋と警察官――幾房
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眩しく映し出されるパソコンのディスプレイには私の雇い主からのメールが無機質に綴られている。
なかなか大きな仕事だわ。最近気が緩んでる、油断せずにしっかり準備をしていかなければ。
瑠璃は気合を入れるように大きく伸びをし、深呼吸をするとうんざりしたように深く息を吐き出した。
「明日も仕事ですか?何時?どこでやるんです?」
『もうめんどうだから突っ込まない』
どうしてこの男は全く私の行く先々に当たり前のようにいるのだろうか。もう一度よく思い出してみよう。明日は大きな仕事だ、準備がそれなりにいる、普段使わないものもいるから、デパートに買い物にきた。ハンカチを買おうとコーナーに行ったら浅黒い肌が視界に入って、まさかと思いきや―――。
「そんなぷりぷりしないでくださいよ、今日もホント、偶然ですって」
『偶然の方が余計腹立たしいの』
「じゃあ待ち伏せしましょうか?」
『それはもっと嫌』
「気難しい人だ」
なるべく視界に入れないように努めながらハンカチを選ぶ。ああもう嫌だ、私はこういうのを選ぶ作業が本当に退屈で苦手なのだ。遠からず明日の仕事の成功に繋がるとはいえ好んでやりたいことではない。
勘で選びレジに進もうとするが、彼に無理矢理引き留められた。
「待って、瑠璃さんにはこちらの方が似合います。大方、明日の仕事用でしょう?」
そう言って差し出してきたのは、紺色の上質な生地に金色の刺繍が入った控えめで上品なハンカチだった。明日の仕事のことを知らないようなのに案外センスは的外れでもない。というか、私の選んだのより全然良い。
悔しくなって彼の選んだハンカチをひったくったがひょいと軽く彼はそれを取り返した。
「僕が買います」
『は?いいわよ、お金には困ってないし、あなたに借り作りたくないの』
「…可愛くないですねぇ、それに借りならこの間助けたので十分作っていると思いますが」
『悪うございましたね。だからこれ以上作りたくないのよ』
「まぁま、そう言わずに。明日はついていけそうにないので代わりに、ね?」
ついてこなくていいわよ、と言い返す前に彼はすたすたとレジに行ってしまった。本当にもう、言い出したら聞かない子どもみたい。仕事で使ったものは足がつきやすいし、あまり縁起の良いものでもないから一度使ったら捨ててしまうのにな、と思うと安価でもないものだから悪い気もしたがそもそも勝手に買うと言ったのだからすぐにその考えを打ち消した。
「ねぇねぇ瑠璃さん、これとこれ、どちらがいいですかね?」
『どっちでもいいんじゃないの』
ハンカチを買って帰ってきたと思いきや、今度は黒と赤のネクタイを下げて戻ってくる。どちらも薄く模様が入っていて彼にはよく似合いそうだ。
「瑠璃さんはどっちが好きですか?」
めんどくさいと態度に表してもこいつはひるまない。黒いネクタイ、そして赤いネクタイ、最後に零の顔を見る。このフェイスだ、スーツでのネクタイでもなんでも似合うだろうが黒でシックなネクタイよりも少し派手くらいの方がいいのかもしれない。
『赤、かな』
「じゃあ赤にします」
『即答かよ。いいの、私センスないけど』
「瑠璃さんが選んだものならなんでもいいですよ」
『良くもまぁそんな歯の浮くセリフがつらつらと出てくるものねぇ。そんなことを言われたら殆どの女子は堪らないでしょうね』
「瑠璃さんは嬉しくないんですか?」
『そりゃ、私はあなたのこと嫌いだもの』
私がそう言うと彼は少し傷ついた顔をした。赤いネクタイでぺしりと私の頭を微かに叩くとレジに向かう。何よ、言い返してこないとそれはそれで調子狂うんだけど。まあ私の知ったことではないが。
「瑠璃さんはまだ買い物ありますか?」
『いや、もうないけど』
「じゃあ家まで送りますよ。車できているので」
大通りに規則的に並ぶ街灯が次々に前から後ろへと流れていく。
金曜日の夜は皆どこか浮かれている。平日を乗り切った不思議な充足感がみんなをひとつにしているようだ。
「明日はどこで仕事なんですか?」
『教える訳ないでしょ』
「何かあったら駆けつけたいじゃないですか」
『あなたも明日仕事でしょ?じゃあ明日どこで仕事するのか私に教えてみなさいよ』
「それは…無理ですけど…」
月はまだ低い位置にいるようでどこにあるのかは分からない。私はちらりと横目で彼の顔をみた。その横顔には先ほどの傷ついた顔は微塵も浮かんでいない。読めない男。分かりやすいようであるのに、本当のところはよく分からない。そもそも彼が私に付き纏う理由もいまいちよく分かっていないのだ。捕まえるつもりならここ数件の仕事を見逃していたのも割に合わない気がする。
「どうかしましたか」
『なんでも』
ほら、こうして考えていることも読まれているのだろうか。彼は表情を崩さない。
『……イザヨイってね』
碧い瞳がちらりと動いた。
『十六夜。満月を過ぎた月のことなんだけど。父の友人に酒が大好きでいつも酔っぱらって、目の淵を赤くしていた奴がいたわ。あまりに酒臭いから私はもともと大嫌いだったんだけど』
どうして父はあんな友人といつもつるんでいたのか。こいつは悪友だと父はよく笑っていたが、私は彼の下卑た笑いがとても嫌いだった。
『オヤジって子どもの嫌がることをヘーキでするよね。月が嫌いって言ったらそいつ、なんて言ったと思う?じゃあお前の名前はイザヨイだな、イザヨイって知ってるか?満月を過ぎた月のことだよ。一番綺麗で輝く時を過ぎて、あとは醜く欠けるだけ、どうだ、お前にぴったりだろう?……って』
「酷いですねぇ」
零はハンドルを握ったままくすくすと笑った。その飾らない笑顔をちらっと眼で攫ってから、私は再び窓の外に視線を戻す。
『…だから、嫌いなの』
「そうですか。大丈夫、もう呼びませんよ」
そう言いながらも零はまだ笑っていた。失礼なヤツ、と思ったがそうやって笑い飛ばしてくれるのがなんだか嬉しかった。
明日の仕事は大掛かりだ。ハンカチは仕方ないから持って行ってやろう。
月がビルの頭から少しだけ顔を出したが、零が楽しそうに笑っていたからまぁいいか、と心の中で呟いた。
続きます
190928