短編2

□殺し屋と警察官――満月
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今この男は、確かに、降谷、と。
ひとつひとつの言葉の意味を噛みしめるが先か、グレーのストライプスーツを身に纏った男性が軽やかにテラスに転がり込んできた。

赤いネクタイ。


「遅かったな、風見」


「すみません、少し目を離した隙に…。言い訳ですね。確かに私の注意が散漫でした」


「注意していたら逃げられなかったとでも?甘い甘い」


「油断するな。歳をとっていても病気でもこの男は危険だ。だから風見、お前に…。……!」


零の目が、不意に、何の前触れもなく私の方へと吸い寄せられた。一瞬二人の時が止まったような錯覚がする。けれどもそれは刹那の出来事で零は私から目を逸らすと冷めたような目を風見と呼んだ男に向けた。


「……とにかく、彼を早く連れていけ。油断はするなよ」


「了解」


「ホ、もう逃げんよ。さっきは来客があったものでな。それに、お前さんはなかなか骨がありそうだ」


そう言って零を挑戦的な眼差しで見、それからちらりと私の方を見た。からかうような、意地悪なような、子どもみたいな目。


「好いネクタイをつけているのぉ」


はっはっは、と愉快そうに笑う声が夜の森に楽しげに木霊した。彼は車椅子を押され、そのまま私の手の届かないところに行ってしまうのだろう。

完全に人の気配が無くなると、漸く零がゆっくりとこちらに近づいてきた。
私は逃げることもできず、逃げようともせず、その様子を怠慢に眺めている。


「…良かったですか?彼を連れて行って」


『ダメ、って言っても連れて行ったでしょ。…貴方も、仕事だったのね』


雲が晴れて満月が夜の空に堂々と現れた。俄かに辺りが明るくなる。グレーのストライプスーツに白いシャツ。そして赤いネクタイがそのスーツにもスタイルにもよく映えていた。
何だか嬉しいような、こそばゆいような、不思議な気持ちになってくすりと笑みを零す。

零はそんな私を見て不思議そうな顔をした。


『ふふ、馬子にも衣装ね。まぁ、この場所に潜入するんだもの、溶け込めるような格好じゃないとね』


零はきょとんとした顔を束の間していたが、再びいつもの優しい瞳に戻った。私の格好を見るとちらっと眩しそうな顔をする。


「瑠璃さんも…とても、綺麗ですよ。とても高貴というか、厳かというか…普段街中に紛れているとは思えない」


『……まあ、化粧もしているし』


いつものように厭味や強がりの一言でも返してやりたかったが上手く言葉が出てこなかった。くるりと彼に背を向け夜の森を、明るい月を眺める。こんなに綺麗で優しい月もあるんだ、と不思議な気持ちになった。
零が隣に並ぶ気配がする。


「どうぞ、さっき貰いました」


いつの間に貰ったのか、零の両手にはチューリップ型のワイングラスが二つ握られていた。赤い液体の入ったそれを私に差し出す。無言で受け取り、軽くグラスを掲げ形だけの乾杯をする。
仕事中は遠慮していた分、上質な香りのするそれは喉の奥をくっと熱くさせた。仄かな渋みと酸味が甘さと調和されて下に沁み込んでいく。蕩けるような柔らかい味に美味しい、と呟いた。


「瑠璃さん、お酒はイケる口ですか」


『一人じゃあまり飲まないけど嫌いじゃないかな』


「今度飲みに行きませんか。お勧めのバーがあるんですよ」


『…いいよ。また今度ね』


零は隣で目をぱちくりさせている。何よと言い捨て再びワインを口に運ぶ。


「いえ…絶対断られると思っていたので…」


『じゃあなんで誘ったのよ。…まぁ、たまには誰かとお酒を飲むのも悪くないなって思っただけ』


そうですか、と目を細めて零が言う。微かな沈黙が流れたが、不快なものでは無かった。


「何かいいことがあったんですか?」


『え?』


「なんだか瑠璃さん、…出会ってから一番晴れやかな顔をしていますよ」


『そうかな』


晴れやか、なのだろうか。深くは考えたくない気持ちだった。今はそれでいい。あの人を殺さなかった事実。それに満足している自分。今は…それでいい。

何故そう思うのか。深く考えてしまったらなんだか、私の中の総てが変わってしまうようで。


『今日は月が綺麗だわ』


ワイングラスに月明かりが反射している。木々の擦れる音が優しく響く。


「…瑠璃さんは、自分の名前が嫌いだと言っていましたね」


『ん?……ああ』


「イザヨイ」のことを言っているのだと気づく。満月を過ぎて、後は欠けていくだけの行き遅れた月。


「イザヨイは十六夜、不知夜月とも書くんです。夜を知らない月。つまり、一晩中空に出て、夜を明るく照らす月」


やはり、零の髪はさらさらと光を浴びて綺麗だった。もしも私が詩人だったら、零の髪を月に例えていることだろう。


「瑠璃さんはまさに…イザヨイの月だと思いますよ。白く優しく、夜に輝く綺麗な月」


零の手がすっと私の頬を覆った。大きくて温かい手だな、何度もその手を振り払ってきたはずなのに、なんだか今はそのままにしておこうと。そして、できればこの感触を純粋に感じたいとも。

久しぶりにお酒なんか飲んだから、酔っちゃったのかしら?

零の顔を見上げる。碧く透き通る瞳。ああ、よく見たら綺麗な目、してるんだな――。


それを最後まで思うのと、零の顔が近づいたのはどちらが早かっただろうか。




遠くのダンスホールで再びクラシックが流れだした気配がした。





191012
続きます
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