短編2

□零君を待つ日常
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「仕事が終わったら連絡する」


零君は確かにそう言った。聞き間違えだとしたら私の耳はかなり馬鹿だということになる。「いってきます」とか「先に寝ててね」を「仕事が終わったら連絡する」と聞き間違える馬鹿がどこにいるというのだろうか。いや、もしかしたらここにいるのかもしれない。

頭はぼおっとして眠たいような気もするのに、目はぱっちりと冴えていて眠れそうになかった。ちっちっと時を刻む時計の音がやたらと耳に響いた。ふとアナログの時計を見ると[AM 2:16]と無機質な文字がディスプレイに刻まれている。もしかしたらこの時計は壊れていて、実はまだ夕方で私は彼のことを待ち焦がれすぎて1分を1時間に感じているのではないか――そんな錯覚さえする。

だけど、この時計は(それが何の役に立つのかは分からないが)砂漠の真ん中でも1秒も狂わない衛生時計(らしい)し、これが狂ってしまっているのだとしたら零君の家は砂漠の真ん中よりも過酷な場所ということになる。まさかそんな訳はないし、要するに、零君が帰ってこないのをあれやこれやと考えてもう何時間も経っている訳なのだが私は改めて凝り固まった首を大きく回して溜息をついた。もう寝ちゃおうかな。眠れるわけないけど。

零君は公安警察にお勤めしているカッコいい(重要!)彼氏だ。仕事は厳しく忙しいみたいで約束の日に会えなかったり、夜が遅くなったり朝帰りになることも珍しくはない。それはいつものことだし理解しているつもりなのだが「帰る」と言った日にはちゃんと帰ってきたし、日付を越えて帰ってくる日にはメールでも必ず「遅くなる」といった連絡がきた。なのに今日はどうしたというのだろう。そもそも零君が「仕事が終わったら連絡する」なんてわざわざ言うのも珍しいし、今日は出て行ってから一度も連絡がきていない。だからいつにも増して不安な気持ちが胸を埋め尽くす。今頃何をしてるのだろう。私のことなんて頭にないのだろうか。勿論仕事を一番に頑張る零君は好きだし、邪魔をしたくない。国を背負う重さに考えれば私の存在なんてすごくちっぽけなものだろう。それはそれでいいし、だけど、だけど、だけど……。

結局我儘なんだよな。

ぼすんとソファーに沈み込むとなんだか叫びだしたい気持ちになった。不安なことなんていっぱいある。零君は格好いい。本当に格好いいと思う。彼氏フィルターが無くても十二分に再三いうが格好いいのだ。ポアロでもモテモテだし街を歩いていても行きかう視線がとても眩しい。公安警察にも女性の方は沢山いるだろうしきっと大人気なのだろう。このへんは風見さんが酔っぱらった時に愚痴っていたから間違いない。今頃もしかしたら女の人と、なんて考えることだってある。というか、今も考えている。考えたくないけど、考えてしまう。風見さんにそんな悩みを話したことがあるがアイツは「小さい女だ」だとか「そんなこと考えても仕方ないだろう」と一笑した。確かにその通りだが仕方がないことだと思うのだ。相手を信じて支え合って、なんて綺麗ごとだ。好きな相手のことを考えて不安になったり、欲しくなったり、求めてしまったり。そんなの好きだったらそうなってしまったって仕方がない。恋は理性でするものじゃない。本能でしてしまうことだ。

ティロリン、と携帯にメッセージが入った音がして飛び上がった。メッセージの相手は風見だった。間違えた。風見さんだった。お前か!と乱暴に画面をタップしてメッセージを開くと「降谷さんは帰ってきたか?」と何でも知っている風見さんにしては珍しい内容がはいっていた。そのまま乱暴な指先で「まだ」とそっけなく返事をする。こんな時に連絡してこないでよ。零君かなって思っちゃうじゃない――もう一度ソファーに倒れ込んだところではたりと気がついた。なんで風見さんがそんな連絡を?警察のことなら直近の部下である風見さんが知らない訳がない。風見さんすら知らないなんてまさか、零君になにかあったんじゃ―――。

頭から一気に血の気が引いた。指先がそわそわと行き場をなくして彷徨っている。私馬鹿だ。女の人と浮気?そんなことどうでもいい。生きてさえいてくれば、なんだっていい。なんで忘れてたんだろう。いつだって死と隣り合わせ。零君の同僚が殉職した話なんて今まで何人聞いただろう。みんなあっけなく、何事も無かったかのようにいなくなってしまう。そして零君のその日はいつ来たっておかしくはないのだ。嫌だ、いやだ、いやだ。居てもたってもいられなくなって外に飛び出した。だけど、どこにいけばいいのかも分からない。息が上手く吸えていないのが分かった。夜の街は冷めていてしんと静まり返っていた。私が叫んでも、彼が突然いなくなったとしても顔色一つかえないみたいに。


「なにしてるの」


聞き慣れた、今すぐ聞きたかった声が突然頭上に降りかかってきて心臓が喉の辺りまで飛び出してきた。身体中から力が抜けていく。声にならない声がせりあがってくる。へたりと座り込んだ膝が冷たいアスファルトに触れてひんやりと皮膚が覚めていった。


『れい、くん…。零くん、零君だよね。……うぅぅ…』


「うん、僕だよ。どうしたの。裸足のままじゃないか」


『……………』


言葉にできない想いが溢れて涙が出た。良かった。帰ってきた。生きていることを確かめるように零君に抱き着く。ああ、零君がここにいる。からだ。におい。肌の感触。すべて私の知っている零君に相違ない。零君は私を子どもをあやすようによしよしと撫でたが、その指先からでもはっきりと疲れているのが分かった。


『零君が……帰ってこないかと思った……』


「……うん」


『良かった、生きてくれててよかった…。本当に良かったぁ……』


「うん………」


零君もまた、確かめるように私のことを抱きしめかえす。涙が出てくる。生きているだけでこんなにも嬉しいと思える相手と人生のうちで出会える確率なんて、きっと天文学的数字に違いない。


「ごめん、連絡できなくて」


『ううん、ううん、いいの。おかえりなさい』


「携帯、海に落とした。危ないところだった。…本当に」


よく見ると零君の逞しい腕は擦り傷だらけで、綺麗に出ていったシャツは埃に塗れくすんでるところさえあった。頬のところにもうっすらと血が滲んでいる。本当に「生と死の間を彷徨った」のだろう。私は零君の頬の血を拭う。痛いのか、緩やかに零君は眉を顰めた。私はその顔を見て安心する。


「なに笑ってるの」


『ごめん、でも、痛いってことは生きてるってことだから。ヒトが痛みを感じるのは少しでも永く生きるため…でしょ?』


「うん。仕返し」


『ひ…ぇえええ』


ぎゅう、と頬を抓られる。痛かったけど自然とお互いに笑っていた。こんなことで笑えることが嬉しくて仕方がなかった。生きているだけでいい、そんな風に想える相手と。


どちらかともなく目が合う。キスをする。街は表情を変えない。私が叫んでも、彼が突然いなくなったとしても、恋人たちが熱いキスを交わしていても、顔色一つ変えないみたいに。


ああ、風見さんに帰ってきたよって連絡しなくちゃいけないな…。
そんなことを思う間もなく、私は零君のキスの嵐に呑まれていた。





190715

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