短編2
□殺し屋と警察官――不知夜月
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仕事用のパソコンの前に座っても、ついついぼおっとしてしまっている自分に気付く。
ぼおっとしているというのは、特に何かを考えている訳では無い。パソコンの眩しい液晶を見つめているうちに、視線はいつの間にかその奥の、遠いところにいってしまい、頭は空っぽになってしまう。はっと気がついて、画面右下の時計に目をやったときに初めて自分がぼおっとしていたことに気がつくのだ。
やれやれ、一体どうしたというのだろう。
気分転換に伸びをして、ドリップしてあったコーヒーをカップに移し替える。キッチンに立ったまま熱いコーヒーを喉に流し込むのだが、そこでもやはりはっとした時には分針が数ミリほど進んでしまっていた。
珍しい、私がここまでぼおっとするんだなんて。昨日の仕事はずっと気を張っていたから、流石に疲れてしまったのだろうか。
特に何かをしたわけでは無いのに。なんなら、ターゲットをみすみす見逃すようなマネをしたというのに。
壁に掛けた昨日のドレスを見る。大して汚れた訳でもないのに捨ててしまうのも勿体ないな。だが仮にも殺しの仕事に使ったドレスをプライベートで着るのも抵抗がある。縁起も悪いしやはり捨ててしまおうか。
壁から降ろそうとドレスに手をかけたとき、腰の辺りに膨らんだ感触があった。ごそごそとポケットの中に手を突っ込むと紺のハンカチがひらひらと舞って床に落ちる。瑠璃は無表情にそれを拾い上げ、早足に歩いて洗濯機の中にそれを放り込んだ。リビングに戻り、ソファーにダイブする。身体が重い。気持ちが怠く鈍んでいて、何かをする気になれない。
目を閉じる。瞼の裏に藍色の帳が浮かぶ。黄色がかった大きな満月。優しい梢のすれる音。貴方の髪が、月の光に透ける綺麗な色が、はらはらと揺れているのを鮮明に覚えてる。
確か、ピアノの音も遠くから聞こえた。ドビュッシーの「月の光」。静かな夜の温かな音色。彼が近づいてくる。微かなワインの匂い。頬にある大きな手。それから。
『ああ、もう、やだ』
反芻を無理やりかき消すようにわざと声を出した。やだ、私。やだ。こんなの、なんで。まるで気にしてるみたいじゃない。
別に――たかだかのキスだ。セックスをしたわけでも無い、見つめ合って、微笑みあって、身体を寄せ合ったわけでもない。ただ、何となくあの時の雰囲気でキスをしただけだ。それ以上もそれ以下もない。
そもそも仕事上「そういう女」に化けることもあるし、私にとってキスやセックスというのは仕事をこなすためのひとつの手段だ。深い意味も浅い意味も無い、「そういうもの」だ。
なのに、なんでこんなに。
溜息を吐く。点けっぱなしのパソコンに新着メールが入っているのが分かる。十中八九新しい仕事の依頼なのだろう。だがそのメールを開く気にもなれない。そもそも、ここ連日仕事の量があまりにも多すぎる。前までは1,2週間仕事が止まることも少なくなかったのに今はほとんど毎日のように依頼がやってくる。酷い時には1日2件こなさなければならない。そもそも「私」がこなさなければいけないような仕事なのだろうか?
はたりと気がつく――、いや、寧ろどうして今まで疑問に思わなかったのだろう?あまりにも日常に馴染み過ぎていたからだろうか。通常、仕事の依頼は直接殺し屋に届くことは無い。それを媒介する「通信者」がいる。つまり私たちの仕事を管理しているのは通信者であるわけだが、だとすればこの仕事量の多さも全ては通信者のせいという訳だ。まさか人が足りなくなるほど殺しの依頼が舞い込んできている訳でもあるまい。ということはつまり。
誰かが意図的に私に仕事を割り振っている?
じっとパソコンを睨み付けるが勿論応えてくれる筈がない。愚鈍な手つきでメールを開き、差出人を見る。むこうから連絡が来ることはあっても、こちらから連絡をとることなど殆どないのだが。
「応答」
短くそれだけを入力して返信する。1分も満たない時間で更に返信がきた。急いでメールを開くと再び「応答」と入力されていた。
会話続行ということだ。瑠璃は少し考えてから「OMS?」と送った。軽いなぞなぞのようなつもりだったが返信は思った以上に速かった。侮れない奴だと背筋が伸びる。
OMSというのはつまりフランス語で「世界保健機関」の略だ。英語では「WHO」と書く。要するに「WHO?」=「誰?」というくだらない駄洒落のような話だが相手はそれに一瞬で気がついた。それからの返信には
「親愛なる熟れた〇へ。●」
瑠璃は首を傾げる。白丸?黒丸?穴?はて、これはどういう意味だろう。〜へ、となっているのだからこの〇は私のことを指しているのだろうか。〇が人を表すのなら、●はこのメールの相手ということになる。なんだろう?
突然インターホンが鳴ってハッとした。モニターには零の顔が映っていた。なんだこいつ、暇人かよ、と思ったがちらりとパソコンの方を見て彼を部屋に入れる。
「どうしたんですか、素直に部屋に入れてくれるなんて」
『入れてもらえないって思うんならこないでくれる?良いところで不審者だからね。ねぇ、ちょっとこれ見てよ』
パソコンの前に零を座らせ、画面を一緒に覗き込む。零は不思議そうな顔をしたが、メールの件を説明すると直ぐにぐっと集中した顔つきになった。
『ね、これ意味分かる?』
「うーん、〇は瑠璃さん、●が相手ということですよね。じゃあまずこの〇の意味について考えていきましょう。というところで、半分までは分かったのですが」
『え、ほんと?教えてよ』
「…いいんですか?怒らないでくださいね」
零は一瞬複雑そうな顔をしたがぽつぽつと話し始めた。
「まず、この〇が瑠璃さんを表している、つまり、瑠璃さんを表すものってことですよね。それに熟れた、というのはすこし行き過ぎた、とか、ピークを越えたニュアンスが感じられます。瑠璃さんと「すこし過ぎた」と白い丸。この熟れた、というのは白丸にかかってきているわけですから…つまり」
『フン、行き過ぎた月。つまりイザヨイの私ってこと?』
「怒らないでくださいよ」
洒落というよりは皮肉にも感じる。全く、こんなことを送るのはどこのどいつだ。
『怒ってないわよ。…でも、じゃあつまりこの黒丸も月を表すってことよね?月?新月?』
「ええ、そこからが僕もよく…。新月、朔、何もない意。黒い月。…月食、とか?」
『月食……?』
その言葉になにか引っ掛かりを感じる。なにが引っかかったのだろう?
「満月の時に地球の影が月にかかること。エクリプス、とも…、月蝕とも書きますが」
『エクリプス…あっ』
ぴこん、と頭のどこかが反応した。そうだ、確かこの間の仕事の時、あの男が言っていた。
「エクリプスを知っているか?」と。
『そういえばこの間の仕事で聞かれたわ。エクリプスの事』
「ホー、ではこの相手はエクリプスの可能性が高いですね。それで、エクリプスとは?」
『さぁ、聞いてきた奴も知らないみたいだった。もしかしたら人の名前じゃなくて組織の名前かも。…調べてみるわ。どうもありがと』
「いえ、お礼はほっぺにキスで構いませんよ」
『誰がするかっての』
ぺしりと頭を小突いた時、零の唇が不意に目に入って慌てて強く殴り返した。ごちんと鈍い音がして零が頭を抑える。
「そんなに強く叩かなくても…」
『うるさい!警察のセクハラはより厳しく裁かなくちゃいけないでしょ!』
いてて、と芝居がかった口調で零が立ち上がり、勝手にキッチンに立ち始めた。ご飯はちゃんと食べないと、なんて呟きながら夜ご飯の準備をしだす。こうなったら何を言っても聞かないことはお馴染みなのでソファーに座って待とうと思うのだが何か心が落ち着かない。
『…手伝う』
「え!?頭でも打ったんですか?」
『殺すわよ』
「いやでも、…じゃあ卵とか割れます?」
『馬鹿にしてるの?卵くらい割れるわよ。貸してみなさいよ。………あ』
「殻が…」
零が反対の方を向いて笑いを堪えていた。だが割るのを失敗して殻を中に入れてしまったのは自分なのでむすっと殻を取り除くしかない。
「ホント、料理に関しては絶望的に不器用ですよね。可愛い」
『うるさい。ほら、次何か頂戴』
「はいはい、ではこれを混ぜて……」
そうして、料理を作ることに夢中になっていた二人はパソコンに新しいメールが届いていたことに気がつかなかった。
そのメールには「0」と書かれていたのだが、その意味に二人が気がつくのはもう少し後の話だ。
続きます
191201