短編2

□殺し屋と警察官――立待月
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雨が降っているというのを、意識の底で感じる。
姦しく世界を覆う雨じゃない。もっと静かで、細かくて、しっとりと街を濡らす朝方の雨だ。

瑠璃は半分眠りながら、半分で起きながら様々なことを考える。
これまでのこと。これからのこと。今日のこと。昨日のこと。明日のこと。
思想と夢想の間で瑠璃は雨の音を聞いている。

……エクリプス。一体何だろう。昨日の夜ご飯は美味しかった。憎たらしいけれど、零の料理の腕が良いのは紛れもない事実だ。そして…これもまた認めたくないけれど、自分の料理が壊滅的だということも。
そういえば、最後に来たメールの意味は?ただ「0」とだけ書かれたあのメール。零は僕のことか、とやけに引きつった顔をしていたけれど。職業柄本名を知られるというのはかなりの危惧を覚えることというのも分からないでもないが。
実際あのメールに「イザヨイ」ではなく「瑠璃」の名前が入っていたら私だって引きつった顔をしていたに違いない。
エクリプス。月食、もしくは、月蝕。地球の影が月に映りこむこと。黒い月。蝕まれる月。少しずつ重なって、彩度と明度を徐々に失っていく可哀想な月。
イザヨイ。嫌いな名前。行き遅れた月。ピークを少し過ぎた、熟れた月。夜を一晩中照らす明るい月。そう言ってくれたのは零だったっけ?夜を知らない月。一番綺麗な満月によく似ているのに、実際は欠けていくだけの月。やっぱり嫌いな名前。

あら?

なんだろう、何かが今引っかかったような気がするのは?バスケットボールがリングにぶつかって、一瞬止まったのにやっぱり零れて入らなかったときのような気持ち。なんだろう。なにか今、私はとても大事な閃きを見逃したような?

夢想は雨の中に溺れていく。思想が形を保てず崩壊していく。それは雨水が滴るのとよく似ていた。少しずつ溶けだして、一体化していくような。侵食。

なんだっけ?何のことを考えていたんだっけ。零のこと?自分のこと?イザヨイの月。今度飲みに行こうと言った彼。頷いた私。あの日のワインの匂い。明るい月。満月?それともイザヨイの月?既望。望月を既に過ぎた月。キボウ、希望とよく似ているのに、皮肉にもイザヨイは既望、既に過ぎてしまっている――。

ほら、また、やっぱり何かが頭のとっかかりに触れたような気がする。なんだろう?











ふと目が覚めた時も、外はしとしとと暗く、くぐもっていた。薄明るい朝の八時はまさにどんより、の言葉がぴったりだ。
そうだ、仕事。机の上の置きっぱなしにしていたパソコンを見て現実に戻る。昨日はエクリプスのことに夢中でそもそもメールがきていた理由の仕事のことをすっかり忘れていた。気乗りはしないが、きてしまったものは仕方がない。この仕事だけサックリこなして、次から少し仕事を減らすように頼んでみよう。

碌に顔も洗わず、電気も点けないままパソコンに向かう。自然光で多少は明るい部屋に液晶の光だけがやけにくっきりと浮かび上がる。
差し当って難しい仕事ではない。やはり特に私に回す理由があるとは思えない。猶予は一週間。護衛が厳しそうな人物でもないし、一週間という期間は充分におつりがくるだろう。やれやれ、この間に新しい仕事が回ってこないといいのだが。

パソコンを閉じ、ひとつ伸びをして立ち上がった。今日はとりあえずターゲットの身辺調査でもし始めるかな。部屋の電気を点け、顔を洗いに行く。
鏡に映る自分の顔は、どこか曇ったような、すっきりとしない顔をしていた。らしくないわよ、しゃんとしなさい、と両手で頬を叩くと軽快な音が鳴った。溜息を吐きたくなるのを堪え、キッチンに戻り昨夜零が作り置きしておいてくれた朝食用のプレートを電子レンジで温める。

なんだか気分が晴れない。「仕事」がこんなにも億劫に感じるだなんて珍しい。
いつもどんな気持ちで仕事に臨んでいたっけ?
仄かなオレンジ色に光るレンジと、その電子音を聞きながらぼんやりと考えるが、これまでの自分の仕事に対する気持ちはもはや過去の残像でしかなく、くっきりと思い浮かべることができなかった。
いつも、何を考えてた?何を思ってた?
仕事に対して何を感じてた?どう捉えていた?


それの本当の答えを言うのなら、それは「何も考えていなかった」なのだ。
瑠璃にとっての仕事は日常の一部で、感情を持ってするものでは無かったから。今までは。


チン、と間の抜けた音が鳴る。思考は一旦ここで打ち止めだ。瑠璃は窓の外に目をやって、きっとこの優柔不断みたいな天気のせいねと決めつけ、レンジの中から朝ごはんを取り出した。




続きます
191212

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