短編2
□殺し屋と警察官――更待月
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ずぶ濡れのまま車に乗る訳にもいかず、零の家がそこから近かったので、歩いて零の家に向かった。
涙の波は落ち着いた。泣きじゃくった後の頭はぼんやりと霞んでいて、それでどことなくすっきりもしている。
零がタオルを私の頭に被せてわしゃわしゃと濡れた身体を好き勝手に拭いた。私はされるがままだ。身体に張り付いたシャツが気持ち悪い。
「風邪ひきますよ。ほら、着替えてください」
ある程度水気を落としたところでTシャツとハーフパンツを渡される。零のもののようだ。流石ガタイがいいだけあって、脱衣所で着てみるとぶかぶかだったがそれでも濡れたTシャツよりは着心地は良かった。
零の匂いがする。
鏡に映る自分を見た。ぼんやりと焦点が定まっていない瞳。華奢な身体に着せられた大きな服。…まるで捨てられた猫みたいだな。ぼさぼさになった髪を手櫛で整えてみる。
身体を動かす度に、零の匂いがふわりと漂うのがなんとなく嬉しくて、毛羽だった私の心を少しだけ落ち着かせた。
リビングに戻ると、零も少し緩めの家着に着替えていた。温かいココアを淹れてくれる。
「少しは落ち着きましたか?」
『ん………』
ソファーに零と並んで座り、ゆっくりとココアを喉に流し込む。甘く、ねっとりと絡みつくような味が今は心地いい。雨に打たれて冷えた身体が少しずつ温まっていく。
無言の時間。優しい雨の音が窓を叩く。
手には温かいココアの入ったマグがある。私は肺の奥底から、深く、長く、ゆっくりと息を吐いた。
『……あれで良かったのかな』
心の海は凪いでいた。拳銃を握っていた感覚が遠い夢の出来事のようだ。あの瞬間、ターゲットを撃たず、拳銃を地面に落としてしまった時から、私の中の決定的な何かが変わってしまっていた。
それが何なのか、変わったからどうなるのか、この時は何も分からなかったけれど。
『…撃てなかった。怖かったわけじゃないの…相手は丸腰だったし、周りにも誰もいなかった。ただ、引き金を引くだけでよかったのに…』
硬直してしまったかのように動かなかった指。今までどんな兵が相手でも、迷うことなく最善の一手を打ち込んできた。勿論、命乞いをしてきた奴もいたし、悲痛な声をあげた奴だっていた。…でも、それは私には関係のないことの筈だった。
『殺し屋として失格だね、私』
私は一体どうしてしまったんだろう?
自分の右手を見つめる。
この先も撃てるのだろうか?自分の身体がコントロールできない感覚。その一瞬が命取りになるのに?
「…たしかに、殺し屋としては失格かもしれませんね」
零の顔を見た。零は辛抱強く語りかける。
「瑠璃、本当はどう思ったんですか?初めから、思っていたのでしょう?この仕事が入った時から。気づいていたでしょう?君は、本当は……」
『駄目!』
雨が降り続く。燻っていた感情が再び顔を出して、目頭を熱くさせた。
『…駄目。だって、私、…殺し屋だもの。それを言ってしまったらもう、…私は。私には…』
「大丈夫…」
零がそう言って私を抱き寄せた。零の胸は力強くて、温かくて、守られているようで安心する。
「…君は空っぽにはならない。…僕がいる。僕が、君を空っぽになんかさせない。だから…」
『う…あ…、…私……』
再び、涙。だけど今の涙は酷く熱くて、沢山の想いが詰まった、私の涙。喉の奥が熱い。飲み下していた言葉が咽びと共にせり上がってくる。
『もう…誰も、殺したくない……』
「うん……」
分かっていた。本当は、はじめから分かっていたんだ。
だけど、それを認めてしまったら私はもう、…二度と。
零の長い指が私の髪を梳く。路頭に迷った子供を優しくあやしているみたい。
涙が熱い。だけど、辛くは無くて、寧ろ少し気持ち良い。今まで押し留めていた気持ちが少しずつ溶けだしていくような感覚。涙と共に、涙に溶けて、少しずつ。
『……零…っ、れい…っ』
「ん……」
何故零の名前を呼んだのか分からない。彼のシャツに縋りついて涙を流す自分が到底現実のものとは思えなかった。
寂しかったのかもしれないし、怖かったのかもしれない。
今まで自分はそうだと思っていたものが崩れ落ちていく感覚。
今までとの離別と、これからへの、先の見えない不安。
だけどそこには零がいた。
相変わらず優しい手つきで私の頭を撫でながら、私の呼ぶ名に小さな声で応えながら。
ここにいるよ、とその存在を示すみたいに。
「瑠璃」
零が私の名を呼ぶ声に、私は素直に顔を上げた。
そして近づいてくる唇を、なんの抵抗もなく受け入れていた。
続きます
200504