短編2

□殺し屋と警察官――下弦の月
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身体が少しずつ熱くなる。


『…………』


いや、熱いのは心だろうか。
そんな陳腐な言葉が浮かんだ自分が、少しだけ気恥ずかしく、同時に少しだけ愛おしくもあった。

湿気を含んだ空気が柔らかい。
照明の光も水に散って、仄かにオレンジ色で、温かい色を含んでいた。


零の身体は隆々と力強く、抱きしめられるとすっぽりと包み込まれるような安心感がある。
零の身体が熱い。
私の熱が零に伝わるのだろうか、それとも零の熱が私を熱くさせているのだろうか。

体温の共有と同化。


『…………零?』


吐息が熱くて、色を含んでいるみたい。
優しい雨の音。白く曇る窓。
窓の外は果てしないのに、この部屋には私たちだけ。ここには、ふたりだけ。

皮膚越しに、零の鼓動を感じる。
私よりも少しだけ大らかでゆっくりで、それでいて力強い。


『もう、大丈夫…よ?』


そう言いつつ身体を離そうとするが、私を抱きしめる力はいよいよ強くなり、熱がどんどん高くなる。

零は何も言わない。
私を抱きしめながら、自重によって少しずつ押し倒されていく。
やがて倒れ込み、覆い被された状態になり、零の瞳越しに天井が見えた。

が、恥ずかしさからか、反射的にその肩を強く押し返した。


『も、もういいってば、いつまで抱きしめてんの』


身体を離して正面から顔を見据えると、口をついて出た悪態に零は些かきょとんとした顔をしたが、やがて吹っ切れたようにくすくすと笑いだした。


「ふ、さっきまでは可愛らしくしおらしかったのに、もうお終いですか?」


『落ち込んでない!ちょっとアレだっただけ』


「アレって?」


『うるさいなぁ。とにかく、もう大丈夫だから。離しなさいよ』


「嫌です。せっかく捕まえたんですから」


抱きしめられていた身体は離れたが、右手だけはがっちりと繋がれたままである。
いくら腕を引こうとしてもそれ以上に強い力で引き込まれていて離してくれそうにない。


「でも良かった。いつもの瑠璃で。さっきまでの瑠璃も可愛かったですが」


『何さりげなく呼び捨てにしてんのよ…』


相変わらず私の口から飛び出す言葉は可愛げのない言葉たちばかりだ。それでも零は笑ってくれる。そんな私を優しく受け止めてくれる。
右手を繋いだまま、正面を向いて座り直した。零もそれに倣い、二人で並んでソファーにお行儀よく座る。

雨の音と、沈黙が心地良い。


『………………ありがと』


癪にさわるので、ぎりぎり聞こえない程度の声で呟いたつもりだったが零にはしっかり聞こえていたらしい。顔を見ずとも満足そうにしているのが分かって、ぷいとそっぽをむいた。

零は返事の代わりに繋いだ手をより強く握り直した。私もそれに応えるように少しだけ握り返す。


ヘンなの。


頬が熱を帯びたみたいに少しだけ熱い。
鼓動も、細々と平常に打っているはずなのに、ひとつひとつが意志を持っていて身体中に響き渡るみたい。

繋いでいるのは手だけなのに。繋がっているのは手だけなのに。

雨。会話も無い。表情も見ない。身体の向きでさえ、少し反対側を向いているくらいなのに。

…なんだか、今までで一番近く、零を感じる。

出会った時より、助けてくれた時より、屋敷でキスをした時より。
ほんのさっき、抱きしめ合っていた時よりも、より近く。

それから暫くの間、ふたりで無言の時間を楽しんでいたが、やがて決心したように私は口を開いた。

これまでの、これからのことについて。
今までの私の離別と、これから待ち受けること。


『零、私…ね、自分勝手な事だっていうのは分かっているし、それで今までの罪を償えるなんて…思っていないけど』


言葉には、勇気がいる。
それを聞いてもらうとなると尚更に。
だけど、私は言わなくてはならない。
今までの誠意のために。これからの覚悟のために。


『私…、殺し屋をやめる。これからは…』


私は浅く息を吸って決心を答えた。

窓の外の、雨が止んだ気がした。










――そして、それから。
私は「殺し屋」から「逃がし屋」になった。
依頼は今まで通り受ける。通信者との対応も昔のまま、傍から見れば私の生活はなにひとつとして変わりはないだろう。
だけど、私は殺さない。殺さないことは、実は殺すことよりも難しくて頭を使うことだったが、それでも殺すことよりやりがいはあった。
別に、殺し屋から逃がし屋になったところで標的に感謝されることは殆ど無かったし、寧ろ「いっそ殺してくれ」なんていう標的も意外なことに多かったがそれでも私は殺さなかった。
中には殺してやりたいくらい下衆な奴もいたし、生かす価値のないような奴だっていた。
だけど、私は殺さない。あくまで私は逃がすだけ。
そもそも人の命を、私ごときの人間が、いや、他の誰だって――奪ったり、滅茶苦茶にしたりする権利なんてないのだ。

今なら少し分かる。あの屋敷での、枯れ木のような彼の言葉。

生と死というのは、我々人間が軽々しく扱って良いものではない――と。


零は、以前よりも積極的に助けてくれるようになった。
警察がこんなことに関わっていいの、と聞くと、これは人助けですから、なんて言う。


けれど、私は忘れていたのだ。
いや、本当は忘れてなどいなかった。初めから、ずっと心の隅にその思いはあった。

見ないようにしていた。いつかは来ると分かっていたから、そのいつかまでは、精一杯やれることをやろうと。

少しでも、零と口喧嘩をしながら穏やかに過ごせる日々が、永く続くようにと――。


分かっていた。
私は信仰をもたないし、無神論者とまではいかなくとも、神や仏を信じる性質では無いのだが。
それでも、この世界には「意志」が存在すると思うことはある。人の抗うことのできない、数奇で断固な、業とも呼べる意志。

覚悟はできていた。はじめて人を殺した時から、私に碌な運命が待っていないことは容易に想像できたし、業によって生き永らえて、業によって死んでいくことに恐怖は無い。

だけど。

世界は罪を犯した人間に、決して甘くはないのだ。


そして、「その日」の審判を下すように、一件のメールが届いた。




続きます
200530

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