短編2

□殺し屋と警察官――有明月
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その日来たメールは、届いた瞬間から何か不吉で、重苦しい気配を含んでいた。

差出人はいつも仕事の依頼を送ってくるものと同じ。いつも通りのメールに開ける前から不穏を嗅ぎ取ったのは、「なんとなく」としか言いようがない。
ただその予感は、何故が零と一緒にそのメールを見るという行為を踏みとどまらせた。


「また、仕事のメールですか?」


『んー、もう面倒くさいから後で確認するわ。どーせ急ぎのものじゃ無いと思うし…』


「僕との時間の方が大切ですか」


『あーハイハイそうそう。あ、ネクタイ曲がってるよ』


玄関口に立つ零のネクタイを直す。私の選んだ赤いネクタイが、グレーのスーツによく映えている。


『なんだかもう、このネクタイを選んだのも随分前のことみたいね』


「そうですねぇ、あの頃と随分瑠璃も変わりましたね」


『そうかな』


向かい合って零の顔を見上げる。
いつも通り。なんら変わらない、いつも通りの日常だ。零が仕事に行く。私はそれを玄関まで見送って、いってらっしゃいと声をかける。


「いってらっしゃいのチューは?」


『無いに決まってるでしょ』


私が普通なら、少しでも可愛ければ、最後かもしれないからとここでチューでもしていたのだろうか。
浅く溜息を吐いた。私はそんな女にはなれない。


『何時頃になりそう?』


「日付が変わる前には帰りたいですが、連絡できないかもしれないので先に寝ててくださいね」


『言われなくても先に寝るけど。…じゃ、いってらっしゃい』


「いってきます」


零が出ていき、ゆっくりと閉まる扉を目で追いながら考える。
多分、これで最後。今日で最後。
少しでも引き延ばしていたかった日常は、きっとこの瞬間で終わりになることだろう。
なんて呆気ない、他愛の無いことなのだろう。
だけど得てして最後というのはそういうものなのかもしれない。さりげなく、何気なく、日常を横切って私たちの人生に影を落とす。

零の足音が遠ざかったのを確認してからリビングに戻り、パソコンの前に座る。
小さく深呼吸をしてメールを開いた。二度と戻れない日常へさよならを言いながら。


メールの内容は、ただ、時間と場所が書いてあるだけのシンプルなものだった。
余計なことは一切書いていないことが、逆に不穏を募らせていた。
呼び出された時間は夕方の17時。まだ時間は充分にある。
ソファーの背にもたれ掛った。無機質な天井を見上げる。

恐らくは、私のやっていることがバレたのだろう。もしかしたら零と、警察とつるんでいるということもバレているのかもしれない。
だとしたら尚の事零を巻き込むわけにはいかない。
念のため件のメールの削除マークにチェックを入れ、削除しておく。

殺されるだろうな、と思うことに、大した恐怖や、違和感や苦痛は伴わなかった。
寧ろこの日をもう怯えなくていいことに、せいせいしているくらいだ。タダで殺されてやる気も無いが、人間の闇みたいなこの組織を相手取って生きて帰られるだなんて、そんな悠長な夢は持つ気にもならない。

長いようで短いような人生だったな。

感慨と呼べるようなものが心の隅に湧き出ていて驚いた。

なんだか不思議。いつだって、いつ終わってもいいと思っていた。私の人生なんて道端に転がっている無数の石っころのひとつで、気まぐれに蹴っ飛ばされてたまに思わぬ方向に吹っ飛んで、いつの間にか河にでも落ちて、風化され砂になって、またいつか石になって誰かに蹴っ飛ばされるような、そこに在っても無くても変わらないような、それでいて何度も繰り返すような、そんな程度のものだと思っていたのに。

心は凪いでいた。酷く穏やかで、少しでも風が吹くことを恐れているように。

…ただ。

私は道端に落ちている石だ。綺麗でもなんでもない、色も無い、気まぐれに拾われて投げ捨てられる石。

微かに風が吹く。小さなさざ波がさわさわと水面を大きく揺らす。

…ただひとつ、心の残りがあるとすれば…。


小さくかぶりを振った。そしていつものように、仕事の前の準備をし始めた。







夕陽が赤い日だった。

煌々と燃え盛り、山の間に堕ちてゆく。
その名残惜しいような血の色が、もう戻ることのないであろう部屋を染め上げるのを横目で見ながら鍵を閉める。
敢えて、部屋の空気はいつものままにしておいた。零が不思議に思うのを防ぐためだ。
零が私と相手の現場に居合わせなければそれでいい。流石にわざわざ零を見つけ出して殺すような真似はしないだろう。ただ、私が殺される現場に零が来てしまえば話は別だ。

今晩一晩でいい。零が気がつかなければ。ああ、仕事に行ったのかと疲れた身体をそのままベッドに投げ出してくれれば。

血の街をひっそりと漂いながら歩く。
子どもが傍を走る。面映ゆいような夕餉の匂い。

今日も血に染まった街は至って平和だ。


記された場所はいかにもうってつけな、山道を少し入ったところにある、錆びれた工場地帯の跡地だった。
壊してしまうのも面倒になって、子どもが好き勝手遊んだ積み木のように散らばった露骨な建物。


沈んでゆく。


少しずつ、少しずつ辺りは暗くなっていく。


真っ赤な鮮血はやがて冷えて固まり、赤黒い墨を流したような空が見える。

月は無い。その事実は私に安心と落胆を同時に覚えさせた。

新月。総ては無に戻る。
かつて私が好きだった月。零と出会った日の月。
なかなかオシャレじゃない?出会ったあの日に回帰していくようで。


『ああ、良い月夜』


私は声を張り上げた。鉄筋が音叉のように、私の声の振動を受けて震えている。


『あなたもそう思うでしょ。沢山ある月齢の中で、こんなにも素敵な夜は無いと思うわ。真っ暗で、終わりが無い、宇宙はどこまでも続くのよね』


背中に舐めまわされるような殺気を感じる。
ああ、これ、いつも近くにあったな。どうして今まで気づかなかったのだろう。


「そうかい、俺は満月も良いと思うがね。まっさらな月が真っ赤に染まるのは、そりゃ気持ちよくて見ものだよ。お前さんは月食を生で見たことはあるかい?まず字が良いね、月が食われる、蝕まれる。神聖な月の光はあの瞬間、真っ赤で禍々しいものに変わるんだ」


ゆっくりと振り返る。驚きはしない。おおかた見当のついていた姿だ。想像していたよりは、少し老け込んでいたが。


『やっぱり、エクリプスはあなただったのね』


応えの代わりににんまりと下品に口を吊り上げて笑ったのは、酒臭くて、いつも父の傍にいた―――。





続きます
200707

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