短編2

□殺し屋と警察官――三十日月
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世界が昏い。



「イザヨイ」


名前を呼ばれてハッとした。ここはどこだっけ?光の届かないくたびれた工場の中。


「どうした?まさかこの状況でぼおっとしてた訳じゃないよな?」


言われるがまま工場の中へ移動したことを思い出す。訝しむような声にまさか、と大袈裟に肩を竦めて見せた。


『せっかくのデートよ。ぼおっとなんて、する訳無いでしょ』


声が良く響く。ぼおっとしていた訳じゃ無い。ただ今から本当におこりうることに、今一現実味をもてなかっただけだ。


「全くだ」


へらへらと話す声に殺意は無い。だが油断してはいけない。この男は私が本当に気を抜けば、次の瞬間には私を殺しているだろうと本能が告げている。

凝った首を解す振りをしてそれとなく辺りを観察した。遮蔽物は無い。地面も剥き出しのままで、特に何かが仕掛けられたような感触は無かった。
他に人の潜んでいるような気配も無く、ともすればこの男の手に総てがかかっているのだろう。


「イザヨイ、お前には正直失望したよ」


おもむろに話し始めた。どうして私が、という言葉はぎりぎり喉のところで留まった。


「お前には才能がある。どこにでも潜り込み、眉ひとつ動かさず、相手の急所を思い切り狙って獲れる殺し屋の才能」


『光栄ね』


自分に突出した才能があるとは思わない。殺し屋になったのも、別になりたかった訳じゃない、父親がそうであって、いつの間にか、当たり前のようにそのレールの上に乗っていただけだ。


「殺し屋にとって一番無用の長物なのは何か分かるか?」


生き残れる可能性があるとすれば、この男の息の根を止めてしまう他に無いだろう。私にそれが可能だろうか?


「愛。愛情。この世の中で最も美しく、残酷で、高慢な感情だよ」


『ハン、まるで詩人ね』


鼻を鳴らした。まさかこんなくだらない説教をするために私を呼び出した訳でもあるまい。

男は笑った。暗闇の中でも下卑た笑みを浮かべているのが分かる。


「そう、愛は詩だよ。人の目を眩ませ、酔わせ、本来の姿から遠ざけてしまう。なぁイザヨイ。どうしてお前は殺し屋をやめた?」


小さく溜息を吐いて見せる。どうして?…そんなの。


『…さぁ、どうしてかな。疲れてしまったのかも。あなたが私にばかり仕事を回すから』


「おいおい、勘違いするな。俺はあくまでお前のために仕事を回していたんだ。お前が本来の姿を忘れないように、お前の才能を摘み取ってしまわないように、だ。全く、一番大きな障害は取り払ったのに、これじゃあキリがない」


一番大きな障害。言葉の意味を図りかねて男の顔を見る。男は私が聞き返すのを待っていたかのように見えた。


「そうさ?俺はいつだってお前を守ってきた。お前があのくだらない男と同じ道へ進むことだけは何としてでも避けさせたかった。そうだろう?子どもの才能を摘み取ってしまう親は悪だろう。俺はお前を守ってやったのさ。なんせお前の名前は」


『ちょっと待って』


自分の金切りじみた声が反響した。動揺している自分に動揺する。だけど、ちょっと待って。この男は今なんと言ったの?

男は笑っている。私が動揺することを楽しんでいる。動揺しなければ意味が無い、とでもいうように。


「いいだろう、何度だって言ってやるよ。お前の父親は俺が殺したのさ。逃がし屋だったお前の父親をな」


世界は昏かった。私は無防備にも、呆然とそこに立ち尽くしていた。
男はたっぷりと間を開けて話す。なかなか寝付けない子どもに遠い昔話をするみたいに。


「鬼、夜叉、死神。お前の父親はそんなありきたりなあらゆる二つ名を思うがままにしてきた男だった。それが蓋を開ければなんてことはない、情に絆されるただの男だったのさ。だから俺に殺される。殺しの世界で友情なんて言葉が本当にあると思っていたのかね」


嫌だ、酒臭い。私はこの男が、出会った時から、一目見た時から大嫌いだった。


「お前には才能があった。俺を初めて見た時から、お前には分かっていたんだろう?お前の父親すら気がつかなかった微々たる殺気を、お前は感じ取ったんだ」


この男が嫌いだった。汚い顔をして笑うこの男が。私を見て舌なめずりをするようなこの男が。


「これはもう、本能としか言いようがないのだろうね。お前は直感で俺の悪意に気がついていた。だから俺のことが嫌いだった。違うか?」


初めて会った時。父がこの男を連れて来た時。飲み屋で知り合ったんだ、へべれけだけど、妙に馬の合う良い奴だ、って。

その酔いの下に隠されていた悪意に、本当は気がついていた?


「なのにお前も所詮情というぬるま湯に肩までどっぷり浸かった赤子だった。お前は気づいていたのに、自分に言い聞かせて、俺の悪意を無いことにしたんだろう?お前はこう思ったはずだ。父が良い奴だと言ったのだ、悪い人の筈が無い、と」


父の事が好きだった。私に世界の総てを教えてくれた人。殺しの技術は教えてくれたけれど、心までは教えてくれなかった人。空は青く、雲が白く、血は赤いことを私に教えてくれた人。


「あの時の俺の絶望といったら!お前に分かるもんか。折角いい素材を見つけたのに、お前は既にあの父親の影響を受けかけていた。そこで俺はどうしたと思う?」


血の気が引いていく。すうっと手先と足先が冷たくなって、心臓に総ての血が静かに集まっていく。巨大な波の前に、海の水が引いていくかのように。


「殺したのさ。いやあ、呆気なかったね。あれじゃ伝説の殺し屋の名が泣くってものさ。だが、惜しくは無かったぞ?あの男はお前を作り出した時点で役目が終わっていたのだから。お前は俺に感謝するべきだね。それから先も、いつだってお前が道を踏み外してしまわないように、俺がどれだけ金と時間をかけたと思う?」


首筋が冷たくなった。今度は頬が熱くなった。速くなりそうな呼吸を何とか正そうと、不自然に深く、細い息が肺の奥から漏れる。


「愛は人を鈍らせる。それを持った瞬間から、人はそれを失う恐怖に怯え続けることになる。愛は人の目を眩ませる。己の直感を、大きな才能を、愛は簡単に潰す」


ああ――――私、どうしてこんな所にいるんだろ。
足が沈みこんでいくような感覚と、身体を包む妙な浮遊感は私の中に矛盾なく存在していた。
自分の身体が、自分の物じゃなくなってくみたい。
コントロールできない、歪んでしまった心と身体。駄目よ、しっかりして、こんな男の話に本気で耳を傾けているの?いつも冷静で、心と身体を完璧に調整してきた私。どんな時も、何も考えず、ただその瞬間の最善の一手を打ってきた私。
それがあなたでしょ?それがイザヨイでしょ?
そうよ――、それが。


「お前にそんなものはいらない。お前は人殺しだ。ああ、可愛いイザヨイ。素敵な名前だろう。行き遅れた月。誰のものにもなれないお前。既に過ぎてしまった月。イザヨイ。イザヨイ。さあ、こちらに来るんだ。そして乾杯をしよう。これまでの人生に、そしてこれからの人生に。それとも父親にでも構わないぞ。あいつは良い素材をこしらえた優秀な種だった」


だめよ、ねぇ、イザヨイ。
駄目。駄目よ。そうでしょ――、あなたは。


『…………れ』


「どうした?何、そんなに驚くことか?さして珍しい事でもないだろう。イザヨイ。良い名前だ。丁度いいじゃないか、お前は月が嫌いなんだろう?イザヨイの月は醜く欠けて、直ぐに新月になる。一寸の光も当たらない、闇に包まれた綺麗な月だ。一人が不安か?女を満たして欲しいのか?残念ながら、俺は行き遅れには興味ないんでね。だが、まぁ――それが仕事のためというのなら、抱いてやらんでも――」


『……黙れ』


ああ、私。駄目、かも。
ぴりぴりと肌が粟立っていく。心の中のどす黒いものが、身体中を迸って、今か今かと全身から吹き出そうとしている。
心臓が熱い。破裂しそうに痛い。抑えが効かない。右手が勝手に動く。駄目。やれ。駄目。いいの?あいつはお前の大切な人を侮辱した―――。


「ん、すまんね、歳をとると耳が遠くて。さあ、イザヨイ、もう一度お前の声を聞かせてくれないか?」


『黙れ』


低い声が、獣の唸り声のような声が喉の奥から噴き出した。
右手は勝手に、かつ迅速に、合理的にさえ動いた。引き慣れたトリガーに指がかかる。

空気を引き裂くような発砲音が新月の夜に響いた。





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