短編2

□殺し屋と警察官――三十日月
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どくん、どくん、と血の流れがはっきり分かるほど、拳銃を握った右手に力が入っていた。
赤。赤。赤。世界を染め上げる赤。左腕が――熱い。


『く…』


「ははは、なんだ、その顔は」


昏い世界で、左腕から血を流しているのは私の方だった。無駄な動きをした覚えはない。空気の流れに逆らわず、私の手はいつもの手順で拳銃を撃った。相手の動きにも不自然なモーションは無かった。それなのに――血を流しているのは私の方だ。


「何故か分からないか?確実に俺の事を撃ったのに、どうして自分の左腕が撃たれている?って顔をしているな。何、単純な話、お前の動きが俺よりも遅かった。ただ、それだけだ」


元々負傷していた左腕だ。太い血管は傷ついていないが、力が殆ど入らない。汗が背中を滑り落ちる。どうすればいい。どうすれば。


「本当にがっかりだ。俺に殺される程度の殺し屋など最早存在する価値も無い。…殺すか」


拳銃の焦点が私に合う。左腕が痛む。
再び、割れるような銃声が響いた。低い呻き声が漏れる。


鮮血。


「……ふ、はは、ははは」


火薬の匂いがする。いつも嗅いでいた匂い。私の居るべき場所の匂い。
それが酷く懐かしく、遠い昔の話のように思えた。


「流石、それでこそイザヨイだ。これで痛み分けだな」


どくどくと男の左腕から血が流れだしていた。失血死するほどの銃創では無いが、これでもう左腕は使えないだろう。


「…だが、気に食わないな。何故最初から脳幹を狙わない?そう教えただろう。どんな獲物も頭をぶっ飛ばされたら確実に死ぬ。最小限の動きで、最小限の血で、最小限の傷跡でお前は俺を獲れる。そういう風に教えた。なのにこのザマはなんだ?」


この男は何が目的なのだろう。それこそ、私を殺すつもりならばもっと早く殺せたはずだ。
左腕を打ち抜いても焦る様子が見られない。寧ろ、この状況を楽しんでいるようにすら見える。


「俺を殺さず、俺から逃げきれるとでも思っているのか?その手傷で?…全く、状況判断もできないとはな。これだから…」


撃たれた左腕が重く、痺れて冷ややかになってきた。冷たく感じるのは血が流れているからか、外気のせいなのか、痛いのか熱いのか、感覚が麻痺してしまっている。


「…これだから、愛は人の目を眩ませるというのだ。実にくだらない。…いや、寧ろお前はそのくだらないものをもっと恐れるべきだった。ちゃんと恐れていたのになぁ、父親が死んだときは」


血の滴る音がする。鈍い音を立てて地面に吸い込まれていく音。


「昔のお前はちゃんと愛を恐れていた。いつか失うもの。壊れやすいもの。深入りすればするほど、失う痛みが増幅するもの。お前は父の死をもってそれの恐さを知っていた。だからこそお前は誰も信じない、最恐の殺し屋だった」


誰かの命を奪う、脳幹を打ち抜くあの瞬間、あの刹那の時間に、何も感じなくなったのはいつ頃からだっただろう。
他人の死を、自分の心から切り離して考えるようになったのは?自分の命ですら、軽々しく扱うようになったのは?


「醜い。生にしがみつき、愛に固執して、心なんぞの居場所を求めるお前は酷く醜いぞ。…なあ、そう思うだろう。出会った時のコイツはもっと美しかっただろう?すべてはお前のせいだよ。お前さえいなければこんなことにならなかった。お前こそが俺の美しい作品を穢した張本人だ」


「僕は、そうは思いません」


目を見張った。暗闇の中から足音と、凛と張る声がする。真っ暗な夜の中でも、道を照らして標してくれる月の光のような。

足音は、私の横で止まった。透き通る髪が金色に輝くのが見えた。


「…何かを守りたい。愛しているから失いたくないという気持ちは、何よりも人を美しく、強くさせるのですよ。…僕は、元々彼女の強さに惹かれた。だけどその強さは酷く脆く、儚いように見えた」


雄弁に語りながら彼は私の左腕を止血した。少し痛いくらいに強く締め付けられる腕が、何故か私に一番強く「生」を感じさせた。


「僕には、初めから彼女が冷血な殺し屋には見えなかった。顔色ひとつ変えず、誰かを撃ちぬいている時も…殺しているのは、自分の心のように見えた。…僕は、出会ってから一度も彼女に「殺すな」とは言ったことがありません。でも、どこかでその言葉を言われたがっているようにも見えた」


零はいつも何も言わず、そっと私の隣にいてくれた。私の心の声を分かっていたからこそ、敢えてそれに直接触れず、私がちゃんと自分の心に耳を傾けるのを、じっと見守っていてくれた。


「瑠璃は、自らの手で今の道を掴んだのです。誰も傷つけない、今までにつけた力は守ることにも使えると…。勿論、「誰も傷つけない」は瑠璃自身も含みます。自分を傷つけないようにするには、人を傷つけない以上に難しい事ですから」


ああ、本当は私は最後にもう一度、零に会いたかったのだ。
地球が終わってしまうその日だって、血の最後の一滴が滴るその瞬間だって、私は零の傍に居たかった。こうして声を聞いていたかった。


「そんな瑠璃が醜いだなんて、僕が言わせません。必死に生きて、必死に誰かを守ろうとする瑠璃の姿はこんなにも美しい」


私にこんなことが、赦されてもいいのだろうか?
心の中に、温かい何かが溢れだす。それは身体中に迸り、手や足先を熱くさせた。
零が私の顔を見た。私も零の顔を見る。傍にいることが、――こんなにも嬉しい。


『……どうして』


「どうしてかな。僕も分からない。だけどなんとなく、家に帰った瞬間嫌な予感がした。なんでだろうね、特に変わったことは無かったのに。…それで、何か手がかりがないかとメールを見て」


『でも、私…メール、消したのに』


「うん…、でも削除ボックスには残っていたよ。ああいうのって消しても記録自体は暫く残るから…。瑠璃がひとりで片をつけるのに、僕が行ってもいいのか一瞬迷った。…けど」


零の瞳に私が映っているのが見えた。弱々しくて、情けない顔をしている。


「…けど、僕がどうしても死なせたくなかったから」


そんなの、私だって。
その先の言葉は出なかった。
零は私を責めないし、私にも零は責められない。
誰かを想う。死なせたくない。誰かのために生きるとは、きっとそういうものなのだ。
それをエゴだと言う人もいるかもしれない。それは相手のためじゃなくて、自分のためだと言う人もいるかもしれない。
それでも私たちは――、私は。


その場にそぐわない、パチパチと乾いた拍手の音が鳴った。
はっとして顔を見合わせる。


「素晴らしい。素晴らしい!まさしく愛だね。まるで大ヒットしたラブ・ストーリーじゃないか!涙が止まらないよ」


お腹を抱えて笑い転げる男を見て、落ち着いた闘志が湧くのを感じる。
…この男にだけは、負けたくない。
それは不思議と静かで、自然な気持ちだった。
この男には負けたくない。こいつにだけは。


「…なあ、イザヨイ。どうして俺がお前をここに呼んだと思う?」


勿体つけるような話し方は、この男の癖なのかもしれない。


「死体が発見しにくいから?周りに人がいないから?勿論、そういう理由も無くはないさ。だがね、お前さんたちは根本的にひとつ勘違いをしているのさ」


じっと男を睨み付ける。挙動ひとつひとつを観察して、どんな動きも見逃さないように。


「…本当、愛は人を鈍らせる。削除ボックス?少し前のイザヨイなら抜かりなくそこまで消していただろうね。つまり、お前はどこかでこの男に助けにきて欲しかったのさ。気づいて欲しいという思いが無意識にその行動を選択したんだ」


「それがどうした」


零が声をあげる。男は相変わらず飄々としていて動じる気配が無い。


「くく。そう…それが愛。お前はこの男によって、愛によってもう一度完成する」


気を抜いていたつもりは無かった。右手に握られていた拳銃には特に注視していたし、だから、まさか男が敢えて拳銃を投げ捨てたことで、判断が一瞬、遅れた。

男は右手に拳銃では無い何かを持っていた。掲げた右手に力が入る。ピ、という無機質な音。

次の瞬間、鼓膜がびりびりと震えるような爆音と共に、ばらばらに散りばめられていたコンテナが爆発し、ほんの少し遅れて爆風がやってきた。

天井が崩れ落ちる中で、男が高らかに笑っているのが見えた。






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