短編2

□殺し屋と警察官――そしてまた月は昇る
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『零ッ!れいっ!!零っ!!!』


名前を呼ぶ。零はぴくりとも動かない。


『嫌っ!嫌ぁッ!!零ッ!!』


崩れた天井は幾重にも重なって、私がひとりで頑張ったところで直ぐに零を引っ張り出せないのは目に見えていた。
血は流れ続けている。世界を染め上げる真っ赤な血。その瞳が開かれることは無い。


「……くく、くくく。はは…、上出来…じゃないか…」


それでも、悪魔のような笑い声はどこからか聞こえてくる。
辺りを見渡すと、少し離れたところに瓦礫の下敷きになっている男を見つけた。
男の下にも真っ赤な血だまりができていて、相当な深手を負っているのが分かる。


「お前を…助けて、その男が……くくく。どんな気分だ?おま…えが、愛を持った…から、その男は…死んだ。お前が、助けて欲しいと…心のどこかで願ったから」


今朝の事。消したはずのメール。
助けて欲しいと思っていた?零を巻き込みたくないと宣いながら、気がついて欲しいと。心のどこかでそう思っていた?


「お前が殺した。ここに…こなければ、死ぬのはお前だけで良かった。お前が…」


手先が冷たくなる。緩やかに閉ざされた零の瞼。流れる赤い血。


「お前が殺した。自分を助けて欲しいと…醜い願望を持ったから、お前が」


私が。私が。私が。
助けて欲しいと願ってしまった。本当は、零に、ここに来て欲しかった。
私がそう願った。だから、零は。


『…違う……』


「くくく…くけけけ。どうだ…大切なものを失う気分は。そら、よく見ておけよ。愛しい愛しい男の心臓を、抱きしめられるのは今だけだ。ここには何も残らない。血も身も骨も、あるのは今だけだ。そこに何も意味は無い。お前の愛は、何の意味も無い」


『違う、違う…違う』


「愛は人を殺す。お前はお前の愛によって、お前の一番大切な人間を殺した」


頭の中が、カッと熱くなって燃え上がるような心地がした。
私の意志に関係なく、右手が拳銃を探して引っ張り出す。
私にはもう何もない。零を殺したのは私。私の腐った業が、巻き込んだ零を殺してしまった。
私が。


『私じゃない…私じゃ』


「お前だよ。なら何故その男はここに来た?本当に予測できなかったのか?最善の手を尽くしたのか?」


私が殺した。私の浅はかな考えが零を殺した。
違う、私じゃない。こうなったのは、全部、全部、ぜんぶ。


「ああ…流石はイザヨイ。最愛の人を殺す。それでこそ最恐の殺し屋だ。くく…はははは。楽なものだろう?これでしがらみは無くなった。イザヨイ…お前のせいだ。哀れな男。お前が」


『違うっ!!!!―――お前がっ!!!』


殺してしまえ。
すべてはこの男のせいだ。この男がいなければ。父も、零も。みんなみんな。

世界は無音だった。男は笑っているように見えた。


「―――――ダメですよ…」


がちゃり、と拳銃を構えたとき、微かだけど、はっきりと零の声が聞こえた。
数ミリ引きかけた指が反射的に止まる。
零の瞳がうっすらと開いているのが目に入った。


『零ッ!!!』


近づくと、零は弱々しい笑みを浮かべた。自分も相当傷が深いだろうに、私を励ますような笑み。


『零っ!良かった…、今、助けるから』


「いや…下手に動かさない方が…いい。上手い具合に…重なってるから、…殆ど僕の…上は空洞なん…だ。ただ…」


零が顔を歪めた。右腕に天井の欠片が深々と突き刺さっている。どうやら出血の原因はここらしい。


「右腕は多分…動脈に傷が入ってる。このままじゃ失血死だ、…何…かで…縛ってくれな…いか」


『ん…、ちょっと待って…』


何か適当なものが無いか探してみる。ポケットの辺りが僅かに膨らんでいるのを感じ、それを引っ張り出してみた。


「……それ…」


『あ………』


ポケットの中から出てきたのは、零にもらった紺と金色のハンカチだった。
持ってこようとした記憶は無い。恐らく、無意識のうちにこのハンカチを選んでいたのだろう。
私の些細な日常の中にも、こんなにも零は溢れている。
ぐっと奥歯を噛みしめなんとか零の右腕を止血した。


「フン…なんだ…生きてたのか。悪運の強い男だ。大人しく死んでいればいいものを」


再び不穏な声がする。きっとそちらの方を睨み付ける。
この男は。この男だけは。
私の手で片をつけなくちゃならない。


「瑠璃……」


零の声は相変わらず弱々しい。致命傷ではないが、この状況のまま放っておくのは危険だ。


「ダメですよ…殺しちゃ…」


しっかりと零の瞳を見て頷く。
生き物の生と死は、我々人間が軽々しく扱っていいものではない。
どこからか、あの老人の声が聞こえた気がした。
満月の夜。柔らかい月の光。上気した頬を冷ます夜の風。
私を変えたあの日の、零が選んでくれたハンカチ。


「チッ…なんだ、その目は」


拳銃を構えながら男に近づく。苦々しく顔を歪める男。


「イザヨイが、ただの殺し屋が。善人でもなったつもりか?だがな、本当にお前の貫いている道は正義なのか?お前の大切な人間を殺した、俺を殺さないのは果たして正義なのか?」


男の声は、もうどこにも響かない。だって、私は知っているから。零が私に教えてくれたから。


「なんだ、その真っ直ぐな目は。俺を殺さないのか。言っておくが、俺はもう直に死ぬ。下半身の殆どが潰れている。ああ、それから仮に俺を捕まえたところで、日本の法では俺は裁けないぞ。俺は今まで一度も、俺の手で人を殺したことは無いしな」


一歩一歩、噛みしめるように砂利を踏み出す音。
男の顔が益々歪む。


「来るな。こっちに来るな。やめろ、殺せよ。お前は俺を殺す機会を、俺に復讐する機会を永遠に失うことになるんだぞ。それがお前の正義か。自分の感情を殺して、それでお前は満足なのか」


『……あなたを』


浅く息を吸い込んだ。真っ直ぐ男を見つめる。


『憎んでいないと言えば嘘になる。あなたは私の大切な人を奪って、傷つけた。…それを赦せるほど私は聖人じゃない』


拳銃を下ろす。男の前に立って、瓦礫と血だまりに埋もれる男を見つめる。


『…だけど、私はもう殺さない。誰も、殺させない。世界の正義?そんなもの、はじめから存在しなかった。私の正義と、あなたの正義は違う。だから、争いが生まれる。憎しみ合う。だけど』


振り返って零を見た。零の息遣いを感じる。


『…違うから、分かり合えることもあると…今は思う。違うからこそ、分かり合えた時に信頼や、愛が生まれる。…はじめから、みんなの正義が同じなら、人はここまで愛し合うことも無かったと思う』


もう一度男を見た。いよいよ男の息は荒く、深いものに変わっていた。


『愛は人を弱くするとあなたは言った。確かにそうかもしれない。執着は人を不安にさせる。嫉妬は盲目にさせてしまう。でも、それと同じくらい愛は人を強くすることだってあると思う。誰かを守りたい。誰かを支えたい。そういう気持ちが……』


夜空というのは、月が出ていなくても明るいものだと知った。優しい風が吹く。


『…私は零に沢山の愛をもらった。だから、私はそれをちゃんと返したい。それまで私は死ねないし、零の事も死なせない。そのことを教えてくれたから、誰も殺さないし、殺させない。…それが私を弱くするのなら、私はそれでも構わない。零とお互いに助け合って、足りないところを埋めながら生きていく。…それだけ』


「フン……反吐が出る」


今や私は、憐憫にも似た気持ちで男の前に立ち男を見つめていた。
私も、この男も、何も変わらない。愛を失う怖さから逃げ出した弱い人間。
強さと弱さは表裏一体なのだ。そこに寸分の違いがあるだけだ。


「…反吐が出る。何が愛だ。…そんなもん、クソくらえだ。クソの役にも立ちはしない。…チッ、目が霞んできやがった。…まさか最期にお前に説教されるとはな…」


話しているだけなのに、男の息は荒い。


「……クソが。なんだってんだ…どいつもこいつも…。そうやって…俺の事を見やがる…。憐れむみたいな…お前の父親も…」


ゆっくりと散っていく男の姿。何故だが泣きたいような心地になる。


「……あいつは…最後まで…俺の事を……憎まなかった…。最後まで…その目で俺を見て……娘の………お前のことを…俺に、頼むと……」


お父さん。
男の言葉に視界が揺らぐ。
口数が少なかった父。何かを教えるとき、まずは背中を見せてくれた父。
最後まで私の事を案じてくれていた父。
私が生まれた時から、当たり前のように愛を与えてくれていた人。


「結局…俺は……お前の父親にも、お前にも…負けたんだな……。…俺は、こんな生き方しか……分からない…。……俺は…」


殆ど吐息のようになってしまっている言葉。男の目が、ふっと一瞬澄んだようになって、徐々に濁ってゆく。


「…よう、瑠璃…お前、……強いな。…俺も、……次は……」


『――――駄目ッ!!!』


どこにそんな力が残っていたのか、文字通り死力を振り絞って男が動いた。
男の右手に握られた拳銃が、男自身の頭に向いている。
コンマ数秒遅れて私は正確に、男の拳銃を撃ち飛ばした。
トリガーを引かれたものの、行き場を失くした男の拳銃が空中に舞いぴかりと光る。

左胸に、ずどん、と何かがぶつかるような、弾けるような衝撃が走った。






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