四重奏

□プロムナード
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「いらっしゃいま…あら、安室さん」


「こんにちは、今日はお客さんでいいですか?」


「珍しいですね、安室さんがお客さんとしてくるなんて…あら?後ろの方は?」


「友達、ですよ」


強引にカフェに連れ込まれてきたのだがどうやらここはこの人の勤め先のようだ。買ってきた食材を冷蔵庫に入れてもいいか、だなんて会話をしている間も私は手持無沙汰できょろきょろしてしまう。
それに気がついたのか彼は私に「杏も冷蔵庫にいれますか?」と聞いてきた。精肉を買っていたので有難く入れてもらうことにする。それにしても、全く知らない人に名前を呼び捨てられるというのはなんとも奇妙な感じだ。


私を適当な席に座らせ、お客としてきたと言うくせにてきぱきとカウンターに入り飲み物の準備をし始める。私はこの人のこと何も知らないのに、この人は私のことを知っていてこれから話をするんだ。あまり居心地の良いものではない。


「はい、お待たせしました」


目の前に差し出されたのは色の濃いブラックコーヒー。見るからに苦そうな匂いに思わず顔を顰めてしまう。


『どうも、あの、お砂糖頂いてもいいですか。できたらミルクも…』


私がおずおずとそう言うと彼は少し驚いたような顔をしたが直ぐにセットを持ってきてくれた。


「ブラックコーヒーは苦手ですか?」


『苦手というか…基本は甘い方が好きです。何か考え事をしたい時とか、頭をすっきりと醒まさせたい時はうんと濃いコーヒーを飲むんですけど』


彼は一瞬遠い目をしたがそうですか、と短く返す。漸く落ち着いて席に座り、改めて彼は「安室透です。よろしくお願いします」と挨拶をしてきた。


『葉山杏です。よろしくお願いします……?』


彼…もとい安室さんは知り合いだったはずなのによろしくお願いしますというのもおかしな感じだが私からすると初対面なので仕方ない。


『あの、つかぬ事をお伺いしますが…えっと、安室さん?と私はどういう関係だったのでしょうか…』

聞きづらいことだが先ずここをはっきりさせておかなければなるまい。安室さんはちょっと考える素振りをして口を開いた。


「うーん…なんというか、仕事仲間、という感じでしょうか」


仕事仲間。適度な距離の関係に一瞬安心したが、私の口座にあった巨額の金銭を思い出してどきりとする。
だけどどう聞けばいいのだろう?まさか私の貯金を唐突に話すわけにもいかないし。


『あの…その、仕事というのは…』


安室さんは私をちらりと見た。じっと観察するような、射抜くような、鋭い眼差し。怖っ、と内心呟きコーヒーに逃げる。甘ったるい味が舌に沁み込んでいく。


「探偵に似た仕事です。僕は副業で探偵をやっているのですが、杏も同じようなことをやっていたと思います。僕たちはそこで知り合いましたから」


『探偵、ですか…』


思ってもみなかった返しだった。探偵?私が?今の私は頭が特別に良いわけでも無いし、人の顔や癖を覚えるのが得意という訳でもない。自分の中のおおよそ「探偵」と言われる部分を探そうとしたが上手く見つからなかった。


「意外ですか?」


安室さんはくすくすと笑ってコーヒーを飲んでいた。この人は今の私をどう思って見ているんだろう?優しく何も気にしていない様子で私に教えてくれているが、内心はやっぱり穏やかではないのだろうか。


『はい…そんな、私にそういうことをする能力があるとはとても思えなくて…。なんか、あの、すみません…』


「どうして謝るのです?そういえば、さっきからなんだかずっとびくびくしていますね」


きょとんとした顔で聞いてくるこの人はただの阿呆なのか、天然なのか、演技なのか。目を見たところでそんなこと分かる筈がない。


『…嫌じゃないんですか?申し訳ないんですけど…私はあなたのこと、本当に何も覚えていないんです。どういう距離で、どういう関係で、どういう風に話していたか…何も』


もし私が逆の立場だったら酷く不快な思いをしていたことだろう。思い出を共有できない辛さ。行き場のない怒りにも似た悲しみ。私が子どもの頃、母が認知症になって私さえ忘れたあの日のことを思い出す。中学から帰ってきた時、卵と野菜を床にぶちまけて呆けていた母は私に言った。―――あなた、だぁれ?どうして私の家にいるの?
あの時のナイフで胸を抉られたような痛みは今も忘れられない。


だけど安室さんは軽くその言葉を笑い飛ばした。


「なんだ、そんなことですか」


『そんなことって…』


こちらとしては重要問題なのだ。小馬鹿にされたようでむっとしてしまう。


「全く気にしていませんよ。寧ろまた1から関係を作れることが嬉しいくらいです。だからよろしくって言ったじゃないですか」


軽々しくいう安室さんは本当に気にしていないようだった。そんな風に言われてしまうと悩んでいたことが阿保らしく思えてくるから不思議だ。


「というより、僕は杏がもう…正直、死んでしまったのかと思っていましたから。こうやって生きて、会えただけで最高に幸せなんです」


ここで赤くなってしまったのは仕方がないと思う。相手のことが好き嫌い関係なく、イケメンにこんなことを言われて照れない訳がない。恥ずかし紛れにコーヒーを流し込むが砂糖が下に溜まっていたようで今度はその甘さに顔を顰めた。


『安室さんは変な人です』


「そうですか?」


安室さんはさらさらと紙ナプキンに何かを書くと私に差し出してきた。空になったコーヒーカップを下げてかさかさと食材の入ったビニール袋を持ってくる。
その紙ナプキンには電話番号が記されていた。


「いつでも連絡してきてください。どんな用事でも構いませんから」


そして私の前にがさりと買い物を置くと、用事があるのでとみんなに一声をかけながら出て行ってしまった。なによ、これ、どうしろっていうのよ…。

しばらく複雑な顔でその電話番号を眺めていたが、ぐしゃりと体制を崩した食材が紙ナプキンをぐしゃぐしゃに押しつぶしてしまいそうで、杏は慌ててその紙を手にとり鞄の中に押し込んだ。




191013

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