四重奏
□スケルツォ
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どうして私は悪い人から助けてくれたお兄さんに連れ去られているんだろう?
まさかあの最初の少年たちは囮で、こっちのお兄さんが本命とか?だとしたらだかが一人女の子を誘拐するのに手間かかり過ぎじゃない?
そんな呑気なことを考えてられたのも、このお兄さんが悪い人には見えなかったからかもしれない。確かに人相は凶悪だし何故か私は強引に腕を掴まれ、大きな家の扉の先に連れ込まれている訳だがこの人から感じる感情は確かに「怒り」だった。
はて、こんな人どこかで会ったかしら。
いやこんな印象的な人、一度会ったら忘れないと思うんだけどなぁ。やっぱりニット帽は熱そうだし。
私に忘れないでと言ったあの人は、誰だったのかな。
何故か胸の奥仕舞いこんだ疑問が不意に湧き上がってきて、杏は微かに動揺した。
「座れ」
居間に通され、ふかふかのソファーに腰掛ける。彼は向かい側に座りイライラと煙草に火を点けた。僅かな沈黙。やることのない私はフーっと吐き出された煙が怠慢に空中に広がっていくのをただ目で追うしかない。
「いつまでそうしている」
漸く口を開いたのは彼だったが、言葉の意味が分からない私はきょとんとするしかない。
『え…あの、先程はありがとうございました……?』
「あんな所でわざと襲われるフリをして。試していたんだろう?俺が行くかどうか。最高の再会を演出できて満足か?」
やはり彼は怒っている。私を突き刺す視線は鋭い。そんなに怒られてもなぁ。心当たりがないわけでは無いが、それは私のせいじゃないし…。
『あのですね』
恐らくは、過去の私が彼に何かをしたのだろう。そうでなければここまで怒られる理由が見つからない。勿論私という点では変わらないのだが覚えていないものは仕方が無いのだ。反省するのも難しい。
『私、ここ数年の記憶がないんです。ですから、あなたが誰で、私が何をしたのか、ちょっと……説明を…』
していただかないと、という言葉はナイフのような瞳にかき消された。ふざけるな、という言葉が今にも聞こえてきそうだ。だってなぁ。私が一体何をしたっていうのよ。
「それはもういい。お前、この半年どこにいたんだ。あの男のところか?何今更戻ってきた?それも、こんな方法で。冗談が過ぎるぞ」
どうやら私の言葉を毛の先程も信じていないようだ。さぁどうしよう。私には悪意も何も記憶すらないのにどう対応すべきなのだろう。というかこの人は誰なのだ。人相は悪いし態度はデカい。…まるで、安室さんと正反対だ。
『あの、だからですね、私…あなたのこと、本当に……』
「いい加減にしろ」
気がついた時には彼は私のソファーの横にいた。大きな体が私に覆いかぶさるように降ってくる。天井が見えて、漸く私はソファーに押し倒されているのだと理解した。
『は?えっ?えっ!?』
「久々に仕置き、してやろうか?手加減はしない」
『ちょっ!?何、や、やめ…ッ!』
突然するりと服の隙間から入り込んだ手。半ばパニックに陥った私は殆ど悲鳴に近い声をあげた。その声を聞いてやっと彼は手を止め、私の顔を見た。その時始めて彼の瞳に私が映っている、と思った。
「杏、お前、まさか、本当に…」
『だから…ッそうだって……ッ』
怖い。私みたいな非力でちっぽけな身体なんて、こんな男の人にしたら塵も同然なのだろう。手を止められても依然として押し倒されている圧迫感は止まない。身体中が恐怖で震え、涙が零れてくる。彼はそんな私を一瞥すると、やっとのことで私の前から退き、再び向かいのソファーに座って煙草に火を点けた。
「フン…目覚めが悪くなるな」
どうやら反省はしていないようだ。何よ。この人。頭のどっか螺子外れてんじゃないの。謝りなさいよ。震える身体を抱きしめながらソファーの隅に座り直し怒りで恐怖を緩和しようとする。
「ああ、俺は赤井秀一。知らないんだったな」
皮肉を込めた瞳でゆっくりと言われ腹が立つ。そして私を上から下までじっくりと見つめた。何よ、何なのよこの男は!!!失礼にもほどがあるんじゃないの。
『あのっ、なんなんですか、あなた…。失礼にも程があります…っ、急に襲い掛かってくるなんて』
「こんなの俺らの中では日常茶飯事だろう。それにしても本当に記憶が無いとは、お前いつからそこまで腑抜けになった?」
『そ…そんな…こと、言われても…』
私を否定する冷たい瞳。やはり彼の目には私はもう映っていない。
「オドオドしてみっともない。お前はもう杏じゃない。お前はもっと」
『なんであなたにそんなこと言われなくちゃならないんですか!!あなたにそんな事言われる義理はないっ!!』
自分でも驚くべき程大きな声が出た。はっはっ、と荒い息が耳の奥で響いている。手が震える。彼の言葉は冷たくて、私という人格を真っ向から否定されたような気分になる。「ありのままの杏が好きですよ」という安室さんの言葉に舞い上がっていた分、余計に応えたのかもしれない。
赤井さん、は、私の大きな声にちらっと驚いた顔をしたがすぐ無表情に戻り、それから少しだけ、ほんの少しだけ、寂しそうな、哀しそうな顔をした。
「…義理はある。俺が、お前の彼氏、だからだよ」
いつの間にか恐怖と怒りはどこかに顔を潜めてしまっていた。驚いたら口って本当にあんぐりと開くんだ、なんて間の抜けたことも頭のどこかで考えていたような気がする。彼氏?この人が?私の?彼氏ってあれか?好き合って付き合う奴だよな?この人と?私が?
「何だ、その顔は。信じられないのか?」
『は…はぁ……私って趣味悪いですね…』
それはさりげない意趣返しのつもりだった。食って掛かってくるかと思ったが、意外にも赤井さんは溜息のような笑みを零した。
「…それ、杏もよく言っていたよ」
その時赤井さんは多分「杏」のことを考えていたんだろう。会った時からずっと張りつめていた空気が緩む。こんな優しい顔もするんだな。心のどこかが鈍く痛む。…どんな気持ちだろう?かつての恋人が自分のことを覚えていなくて、否定されるのは?…勿論、私にしたことは許せないのだけれど。
赤井さんはハッと私を見ると、また冷たい瞳をする。
「お前は杏とは似ても似つかない。杏はいつだって堂々と前を向いていて、誰も敵わないくらい強かった。あいつの涙は見たことが無いな。お前はいつも不安そうな顔をしている。だから無性に腹が立つ」
なんだか似たようなことを安室さんも言っていたなとふと思う。頭の中の空白の部分。私はぽつりと言葉を零す。
『…昨日も、一昨日も、連続していたものが、半年前からはぽっかりと無いんです。後ろを振り返ったら道が見えない、んじゃなくて道が無いんですよ。…随分慣れたけど、いつも不安なんです。あのぽっかりなくなった部分には何があったんだろうって。得体の知れないなにかがあの中にはいる気がして…』
通帳に入ったお金。誰からも連絡のこない私。からっぽの家。
見ないように、考えないようにしていたけれど、得体の知れない不気味な不安は蜘蛛の巣のように私の背中に纏わりつく。
赤井さんはじっと私の話を聞いている。
『記憶の無い期間の私は…今の私とは違う。でも、その私も…探せばどこかにいるようで…それがいつか飛び出してきそうで。…怖いんですよ。…あなたにそんな気持ちは分からないでしょう?』
赤井さんはこの短時間に何回目かの煙草に火を点けた。大きく息を吐く音に合わせて私も深呼吸をする。
「…そうだな。確かに、悪かったよ。少し言い過ぎた。だが。…お前も、俺の気持ちは分からない」
『そう…ですね…』
不条理な世の中だ。私たちはここにいるのにここにいないのだ。ここにいない「杏」は亡霊で、もうどこを探してもいないのに、二人ともそれを見つけようとやきもきしている感じ。
少し落ち着くと気まずいような気持ちになって鞄を引っ提げ家を出ていこうとする。
『失礼しますっ』
何か言われるかな、と思ったがその言葉に返事は無かった。無論追いかけてくる訳も無い。
どうだろう、私は追いかけて欲しかったのだろうか?
大きな門を飛び出すと、きい、と錆びれた閉まる音がした。空はもう陽が傾きかかっている。遠くの方で鳴くカラスの唄声を聞きながら、私はとぼとぼと家路につくしかなかった。
191029