四重奏
□ソナチネ
1ページ/1ページ
――オドオドしてみっともない。お前はもう杏じゃない。お前はもっと。
――ありのままの杏が好きですよ。
――…義理はある。俺が、お前の彼氏、だからだよ。
家に帰ってからも、繰り返し繰り返し二人の声が頭の中に響き渡っていた。
今日はあまりにも濃い一日だった。安室さんに誘われ、変な人に襲われそうになって、赤井さんに助けられて、それが私の彼氏だった――なんて。
ひとりぼっちの部屋に居れば無意識に出来事を反芻してしまう。安室さんの優しい声。そして、赤井さんの冷たい声。生々しく私に触れた赤井さんの手。信じられないことではあるのだが私は赤井さんが彼氏だったことにどこか納得してしまっていた。勿論、性格は悪いし怒りっぽいし、私があの人のどこを好きになったのか何一つとして思い出せもしないし理解もできないが、先ず第一に赤井さんは嘘を吐かなさそうだと思ったし、あの、襲われかけたときになにか「しっくりくる」ものを感じてしまったのだ。
何かを思い出したわけでは無いし、あの時は怖くて嫌悪感でいっぱいだったけれど、…なにか、そう、言葉をいれるのなら「しっくりきて」しまったのだ。
ぶるっと寒気がした。ソファーの隅に縮こまり、自分の身体を抱いて気持ちを落ち着けようとする。それよりも、なによりも、今日一番衝撃的だったのは……私自身だ。
ふと今日赤井さんに対して怒鳴ってしまった時のことを思い出す。なんだろう、この、得体の分からない不気味な感覚は。赤井さんに好き勝手言われてカッとなってしまった――んだけど、まさか、私があんなに大きな声を出すなんて。まるで誰かが私の身体を借りて、勝手に話してるみたいな感覚だった。あんな風に大声を出す自分が自分の中にあるだなんて。
…分からない。自分が分からない。それに私、本当は気づいてる。だから怯えている。
この先にも「あの自分」が出てきて、それが私の人生を大きく変えてしまいそうで。
スマホの着信音に杏はハッとした。いそいそと光る画面をのぞき込むと「安室さん」の文字が浮かびでていてドキッとする。応答ボタンを押すと、やはり優しくて温かい、安心するような安室さんの声がした。
「もしもし、今日は付き合ってくれてありがとうございました。もう家ですか?」
『あ、いえ、こちらこそご馳走になっちゃって。さっき家に……』
「では、どこかに寄ってたんですね」
ふと思う、もし安室さんに今日のことを話したら安室さんはなんて言うだろう?襲われた、何て言えば本当に心配してくれるんだろうな、とか、赤井さんのことを言ったら?そうですか、良かったじゃないですかって言うのかな、とか。
記憶を失くした人間がかつての恋人に出会う――それは世間一般の目から見ればハッピーエンドになるのだろうか。
「何かありました?」
『え?』
「声が…少し、元気のないように感じたので」
この人は、他人に優しくすることに抵抗がないのだろうな。だから、電話の声を聞いただけで分かるなんて私の事気にしてくれてるんだ!と舞い上がるのは間違いなのだ(ちょっと舞い上がってしまったけれど)。
安室さんは私のことをどういう気持ちでみているんだろう。そして私は安室さんのことをどういう気持ちでみたら良いのだろう。
いや、みたら良いのではなくて、……どうみているか…。
「杏?」
クリアな声がなんだか際立って耳に飛び込んできてどきりと心臓が跳ねあがった。動揺を見られないように「あ、いや、夜ご飯なににしようかなって」と適当な話をする。安室さんはくすりと笑うと「寒くなってきたし、筑前煮はどうですか?」と話す。
「少し手間はかかりますが、具材を種類ごとに分けて煮ると、美味しく仕上がりますよ」
『えー、ひとつずつですか?面倒くさいなぁ』
「ふふ、そう言うと思ってましたけどね」
なんでもない話でひとりぼっちの部屋が満たされていく。杏はいつの間にか今日のことを反芻しなくなっていた。今の時間で今日という一日が満たされていく。
「杏」
話がひと段落したところでやたらと真面目な声で安室さんに名前を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。安室さんの言葉はなんだかひとつひとつが意味を持っていて、軽々しく扱ってはいけないような気がした。
『は、はい?』
「どうか、ひとりで抱え込まないでくださいね。何かあったら僕に話してください。記憶を失くして、僕のような昔の人と出会って…今、とても不安だし、不安定だと思います。僕はできるだけ杏の力になりたい。だから…」
今日のことを思い出してちくりと胸が痛む。一瞬話してしまおうかと思わなかったわけではないけれど、やはりまだ安室さんにそんな事まで話すのもと思ったし、私のためにも、…赤井さんのためにも、まだ話すべきではないと思い直した。
もし、今日のことを話して「酷い男なんです!私よくあんなのと付き合ってたと思います!」なんて悪口にしてしまえればきっと楽になるのだろうけれど。
『大丈夫です。…あの、安室さん。安室さんはどうして私にそこまで良くしてくれるんですか。昔の知り合いだからって、…流石に悪い気がして』
電話の向こうで安室さんがくすりと笑う気配がした。
「理由はあるにはありますけど。それは至って僕の個人的な理由ですから。また…いつかお話しますよ」
その言葉にはこれ以上は踏み込ませないというニュアンスが感じられたから、私も言及はしないでおいた。理由なくされているよりは、彼なりの理由で優しくされているほうが気持ちは幾分楽だ。
『そうですか。…じゃ、今日はありがとうございました。筑前煮、トライしてみます』
「いえいえ、ふふ、ひとつずつ、ですよ。…また誘いますね」
『…ふふ、はい、待ってますね』
「ええ。おやすみなさい、夜は冷えますから、温かくしてくださいね」
『安室さんも、風邪ひかないように。…おやすみなさい』
電話を切ってからも暫くは窓の外をぼんやり見詰めたまま動けないでいた。
安室さんのことを私自身がどう見ているか、か…。
窓に映る自分の顔は熱に浮かされたような、少し情けない顔をしている。
杏は胸に宿ってしまったこの温かい、火種にような想いを「恋心」だと思わずにはいられなかった。
191104