四重奏

□ノクターン
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人生だとか、運命だとかっていうのは数奇なもので、色んなものとか人とかが絶妙に絡まってなんとかバランスをとっているのだろう。
あの時ああしなければ、と思う事もある。ああしなければ、あれさえしなければ、あれさえ無かったら。
あの時風が吹かなかったら。もう1分早く店を出ていれば、あの服を着ていかなければ、あなたに会わなければ。
私の人生は全く別物になっていたのだろうか?







独特のエンジンの音だけが車内には響き渡っていた。
気まずい沈黙が車内を満たしていく。車に乗ってから一言も口をきいていない。私も――赤井さんも。
今更何を話すことがあるというのだ。果てしなく続くような気がする帰路と、痛む左足を感じながら、杏は絶望的な気分になった。





そもそも、どうして私が赤井さんの車に乗っているかというと、という話だ。
仕事の休みと給料日が重なった私はご褒美に、と家からは少し遠いショッピングモールに買い物に来ていた。
丁度棚卸の時期と重なり何もかもが安売りしていたので調子に乗ってあれこれ買ってしまい、私の両手は荷物でいっぱいだったのだ。
これがまずひとつめの後悔。こんなに買い物をしなければこの先あんなことにはならなかった。
タクシーで帰るにも少し距離があり高くついてしまう――けち臭い私は腕のトレーニングだと腹をくくり、電車で帰ろうとショッピングモールを出た。
ここにも沢山の後悔かある。久々の遠出で新しい靴を履いてきてしまったこと。タクシーで帰らなかったこと。もう少し店に留まらなかったこと。何か一つでもクリアできていれば。
買い物というのは疲れるもので、私はへとへとになっていたし、荷物も多くてふらふら歩いていたのだと思う。ぼおっとしていたのかもしれない。そんな複雑で、単純な要因が絡み合って、私は側道から走ってくる子どもの自転車に気がつかなかった。小さなタイヤの音に気がついた時には子どもは私のすぐ傍まできていた。子どもも同じタイミングであっ、と気がついた。お互い無理に避けようとして、慣れない靴の私は思い切りバランスを崩し、買ったばかりの荷物をぶちまけて私はその場に派手に転んだ。
小学校低学年くらいの子どもは怯えた顔でとことこと近づいてきたので、笑顔を返した。大丈夫。君は怪我してない?子どもはホッとした様子で僕は大丈夫。ごめんなさい、と。きちんと謝れるいい子だと思って頭を撫で、どこかに行くように促した。
ぶちまけた荷物を片そうとした時、左足に激痛が走った。立てない、と直感する。恐らく転んだときに捻ったのだろう。全く、いい歳をして捻挫だなんて情けない。仕方ない、タクシーを呼ぼうか、と考え始めた矢先に私の視界に入り込んだのは。










「子どもに転がされるとは情けないものだな」


『……見てたんですか』


沈黙が突然破られてハッとする。ちらりと赤井さんの横顔を盗み見るが、シャープな横顔は相変わらず表情が無く仏頂面だ。


「ボーっとしてるから、ああなる」


『悪かったですね。赤井さんはどうしてあんなところに?』


「お前には関係ない」


『…そうですね』


会話が続かない。こういうところが苦手なのだ。喋りかけてくるくせに、無責任というか、後処理をしないというか。ボールを投げてくるくせに、投げ返してもキャッチしてくれない感じ。
つくづく、安室さんとは大違いだと思う。行き場が無いので仕方なく窓の外に目をやる。せめて音楽かなにかかけてくれたらいいのに。車内はあまりにも静かだ。
流れる景色と、規則的なリズムが心地よい。不意に眠気が襲ってくる。珍しい、あまり知らない人の車で眠くなるなんて。普段はタクシーでも気を遣ってしまって眠くなんてならないのに。買い物で少し疲れてしまったのかもしれない。








「起きろ」


ハッと気がついた時には車は見慣れた景色の通りで止まっていた。どうやら随分深く眠ってしまっていたらしい。ううん、と伸びをして脚を伸ばすと左足が鋭く痛んで慌てて足を引っ込めた。


「警戒心の欠片も無いな」


いつの間にか外から助手席の方に回り込んでいた赤井さんが隣に立っていた。車は豪邸の前に止まっている。


『…あの、ここは?』


「俺の家だ。今は借りているだけだが」


『いやそうじゃなくて…どうして赤井さんの家に?』


「その足では一人で立つこともできないだろう。固定してやるから来い」


ぶっきらぼうに言う。恐る恐る車外に出ようと足を踏み出すのだが、やはり歩くどころか立てそうにもない。赤井さんは短く息を吐くと突然私を抱き上げた。あまりにも急に身体が持ち上げられたので私叫び声をあげる。


『ぎゃあ!!なに!?』


「煩い。騒ぐな」


『いい、いいです!歩けますから!』


「その足でどの口が言う。騒ぐな」


確かにとても歩けるような足では無い。少しの恥ずかしさもあって押し黙る。重くないかしらと思うが赤井さんは器用にも私を軽々しく抱き上げたまま車のキーをかけ、家に入った。
ソファーに降ろされ漸く一息を付いた。ぽん、と氷嚢を投げられる。


「とりあえず冷やしていろ。包帯をとってくる」


すたすたと部屋を出て行ってしまう赤井さんの後姿に小さく溜息を吐いた。本当、よく分かんない人。優しいんだか、冷たいんだか、私のことを気にかけてくれているんだか嫌っているんだか…。
熱を持った患部に氷嚢が沁みわたっていくようだ。悪い人ではない…んだろうけど、…なんだかなぁ。

暫くすると赤井さんが包帯とテープを持って帰ってきた。私の座っているソファーの足側にどかりと座り込むと、氷嚢を退かして私の左足を手に取る。冷え切った左足に赤井さんの手がやけに温かく感じた。


「今から動かすから、痛い方向があれば言え」


そう言って私の足首を伸ばしたり曲げたり、色んな方向に折り曲げたりした。私は気まずくなりながらも痛いとか、大丈夫だとか返事をする。包帯を少しずつ巻いて固定していく赤井さんの手は、意外に優しい手つきで少しだけ安心した。


「歩いてみろ」


しっかりと固定された足を恐る恐る地面につけて、歩いてみる。力は上手く入らないが、なんとか一人で歩けなくもない。すごい、と素直に感嘆して振り返ってお礼を言おうとした時、ぐらっとバランスを崩した。ふらついた身体を赤井さんがぐっとソファーの方に引っ張ってくれたので、私の身体は赤井さんの方に倒れ込んだ。


『す、すみません』


「全く…学習しない奴だ」


ぱっと顔を上げると数センチの距離に赤井さんの顔があって、反射的に身体を離そうとするが赤井さんの腕が後ろにあって動けない。赤井さんは無言のまま私のことをそのまま抱き寄せた。逞しい身体に顔を押し付けられ、苦しくなって身を捩るが赤井さんは許してくれそうにない。

数秒にも、数時間にも感じられる時間が流れていく。微かに香る煙草の匂いを感じながら、赤井さんはこんなにも近くにいるのに、心はとても遠いところにあるような気もした。


『…苦しい、です』


気まずいような、…どこか、寂しいようでもある気持ちになって言葉を零すと赤井さんは小さくああ、と呟いて腕の力を緩めてくれた。抱きしめる体勢は変わらないが、少しだけ身体を離すことができた。
赤井さんは顔に腕を付いて少しだけ状態を起こしながら、私の方を静かに見つめている。


『…なんですか』


「…悪い。分かっている、お前はもう杏じゃない。杏はどこにももういないことは」


赤井さんの瞳はとても遠くにあって、私を見つめているのに、心は全く違うところにあった。寂しい瞳。哀しい瞳。そんな目で私を見ないでほしい。…私にはどうすることもできない。胸が鈍く沈んでいく。


「今のお前に過去の杏を当てはめても無意味だということは分かっているんだ。お前からしても…良い気はしないだろうしな」


独り言のようにも、自分に言い聞かせているようにも感じる言葉。何故か私の方が苦しいような心地になってくる。耐え切れなくなって視線を逸らす。


『…だったら、悪いって思うんなら…』


もう一度赤井さんの顔を見上げた。


『…ちゃんと、私のことも名前で呼んでください。お前、じゃなくて』


赤井さんの瞳が微かに揺れた気がした。躊躇うような仕草に図々しいこと言ったかな、と思ったがやはり、お前と呼ばれるのはあまり良い気がしない。赤井さんが仕方ないように笑う。


「……そうだな、悪い、杏」


赤井さんが、いつもぴりぴりして何を考えているのか、感情を出さない赤井さんが、あまりにも真面目な顔と声で言うものだから、何か可笑しくなって私はつい吹きだしてしまった。


『ぷっ…!あははは!そんな、真面目な顔で人の名前呼ばないでくださいよ!ふふ…っ!』


「お前が言ったんだろう」


『あー!またお前って言った!』


それでも笑い続ける私に赤井さんも頬を緩めているのが分かる。陽が落ちてきた。部屋は段々薄暗くなってきている。


『ふ…っ、もうっ、赤井さんって、何考えてるか分かんないくせに正直ですよ…ね…』


笑いの波が落ち着いて、ふと顔を上げたときにしまった、と思った。何故そう思ったのかは分からない。そうなってしまったら、私はきっと拒否できないということを、心のどこかでは最初から分かっていたからかもしれない。
すぐ近くにある赤井さんの瞳と、目が合ってしまった。漸くふたりの身体がそこにきちんと存在した気がした。鋭いナイフのような視線でも、遠い誰かを見ている眼差しでもない、赤井さんの瞳とちゃんと、私の目が、心が合ってしまったのだ。


「杏」


名前を呼ばれて困惑する。急に抱きしめられていることが恥ずかしくなって、その場から逃げ出したくなるが勿論そんなことは叶わない。


「今の杏は昔とは違う。それは分かっている。だが、…それでも、杏は俺のものだ」


違う、あなたのものじゃない、とこの時言えば良かったのだ。身体を捩って突き飛ばして逃げれば良かった。
あの時買い物をしなければ。足を捻らなければ。赤井さんに会わなければ。こんなことには。

…けれど、もう、遅い。


「だから、逃げるな」


動かない、動けない私に赤井さんの顔が近づいてくる。
決して心を許したわけでは無いのに、薄暗くなったソファーの上で、私は為すがままに赤井さんのことを受け入れていた。





200113

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