四重奏
□カンタータ
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『お邪魔します。わぁ、可愛いワンちゃん。前来た時はいませんでしたよね?』
「ああ、ついこの間拾ったんです。どうしてもついてきて離れなくて。名前はハロ。可愛いでしょう?」
『ハロちゃん。なんだか小さな子どもみたいですね。安室さんについていったのは、きっと優しくしてくれるのを見抜いていたからだろうな』
安室さんといるのは楽しい。
女の子というのは、男性に創られるものなのだとつくづく思う。優しくされる。可愛がられる。勿論、人の価値をそこにしか見出せないのは違うと思うし、男の人にそうされることでしか価値を感じられないのも違うとは思うけれど。
安室さんはちゃんと私を女の子として扱ってくれる。その眼差しから、指先から紡がれる私への仕草は間違いなく厚情、あるいは愛情だ。
だから私も安室さんに対してそうありたいと思う反面、赤井さんのことを考えると、どこか後ろ暗い気持ちが存在することも確かだ。
触れる指。甘い吐息。
私と安室さんの触れ合う肌の部分は、いつもちょっとだけ冷たくて、さらさらとどこにも引っかかるところがないくらい滑らかで、行為が終わった後は凄く楽しい夢を見た朝のような清々しくもどこか物悲しい気分に襲われる。
それは、裸のまま後ろから抱きしめられて横になっていても、耳元で甘い愛の言葉を囁かれたとしても埋められない冷たい小川の流れる溝。
辺りは薄暗かった。
どうやら行為が終わった後、そのまま眠ってしまっていたらしい。
人の気配は無い。暗がりに手を伸ばし手探りで携帯を探し出すとメッセージが一件入っていた。ちかちか光る画面が眩しい。
【仕事に行ってきます。よく眠っていたので起こさないでおきました。鍵はエントランスのポストの中に入れておいてください。また連絡します】
ぽんと携帯を再びベッドの上に投げ出し、甘く鈍い身体に抗わずもう一度ベッドに突っ伏す。
安室さんの匂いが強く香るベッドに四肢を捕らわれながら、ほっと小さく息を吐いた。
変なの。こうして安室さんのベッドで眠っていることは確かに幸せなのに。…いなくてほっとするなんて。
少しだけ窓を開ける。すうっと肺の奥に滑り込んでくるような秋の風。近くに木が植えられているのか、金木犀の淡い香りが私のまわりを纏って離さない。
ふと、足の辺りにくすぐったい気配がした。起き出したハロがすっかり警戒心を解いて足元にじゃれついている。
『あは、くすぐったい…ハロ、安室さんってどんな人?』
ハロはきょとんとした顔で息を繰り返しているだけだ。煌びやかな目が私には眩しい。
『私、間違ってないよね…』
誰に言うでもなく、零れた言葉。私を理解してくれる、優しい人。私を求めてくれる人。だから、嬉しい。だから、傍にいる。…ただ、それだけのこと。
『…間違ってない…』
それなのに、どうしてこんなにも腑に落ちない想いが心の中にあるんだろう。誤魔化すようにハロの頭を撫でると、ハロは気持ちよさそうに目を細めた。
…それくらい、単純だったら良かったのに。
暗闇の中で携帯の画面が明るく点滅した。その表示を見る前から、その画面に映る名前をなんとなく察していた気がする。
溜息を吐いて荷物を纏めた。去り際にハロが心配そうにクウンと鳴くのを慰めながら、安室さんの家を後にした。
赤井さんの家は柔らかなオレンジ色を放っていた。
玄関の扉の前に立つと、分かっていたかのように扉が開いた。いつもより優し気に感じる赤井さんの空気に気後れしながらも、心を決めて家の中に入る。
足首を捻挫してこのソファーで情事をしたことが、遠い遠い昔の話のようだ。
あれから何が変わったのだろう?
何があの頃と違って、こうなっていったのだろう。
小さく深呼吸をする。
「聞く気になったのか?」
軽い世間話でもするように、赤井さんはキッチンに立って紅茶を淹れながら話しかけた。
赤井さんの背中は無表情だ。もしかしたら、何もかも気づいているのかもしれない。
『…話を、聞く気にはなれません』
紅茶がカップに注がれる音がする。赤井さんは振り返りもしない。
『この間までは知りたいと思っていました。でも、…今は、もう別に。私、彼氏ができたんです。数年間の記憶が無いことも、きちんと理解してくれる優しい人。今私は、普通に仕事して、普通にお付き合いをして、普通に生きれてる。…もう、充分なんです。私は、今の私が…』
「弱いんだな」
振り返った赤井さんの顔はやはり無表情だった。キッチンにもたれ掛って、吟味するように私を見つめる。その視線は私を落ち着かなくさせた。
『…そうですよ。でも、それの何が悪いんですか。赤井さんは過去の強い私が好きなのかもしれない。だけど、私はそんなに強くない。普通のどこにでもいる、ただのちっぽけな人間なんです。…杏はもう、どこにもいない』
赤井さんの瞳が微かに揺れた気がした。でもそれはほんの刹那の出来事で、赤井さんが本当に少しでも動揺していたのかどうかは分からなかった。
『とにかく、それが私の答えですから…。ピアス、返してください』
赤井さんは動こうとはしなかった。何かを試すような、私の出した答えの更に深い部分を引き出そうとするような、そんな目で見つめている。
私は目を逸らした。
『…じゃあ、いいです。さよなら。もう、ここに来ることは無いと思います。私の家の鍵は適当に処分しておいてください』
冷たく鳴る心臓を抑えて部屋を出ていこうとした時、抑揚のない赤井さんの声が背中に降り注いだ。
「正しいことが、幸せとは限らない」
『…なんですか。説教のつもり…』
「お前が俺に言った言葉だ」
ひんやりとした何かが、頭の奥を通った気がした。頭がそれを理解しようとする前に、逃げるように部屋を出ていく。
外に出ると、どっと疲れが押し寄せてきた。短い時間だったが随分緊張していたらしい。赤井さんの冷たい視線を思うと、どうしても肩に力が入ってしまう。
…これでいい。安室さんのためにも、私のためにも、過去を知る必要は無いし、赤井さんとの関係は断たないといけなかった。私は間違っていない。これが正しい選択なのだ――。
再びひやりとした感覚が頭を襲う。金木犀の甘い香のように、気がつけば入り込んで私を立ち止まらせる。
正しいことが、幸せとは限らない。
…違う。これは杏の言葉だ。私の言葉じゃない。正しいことは、幸せなのだ。そうしておけば間違いのないことは、やっておくべきだしやらなくてはいけない。
だから、私は間違っていない。この選択は間違いなんかじゃない。
そう思いながらも、ふと、拳銃の事が気がかりになる。
ぞくっとするほど重たい杏の存在が、すぐ後ろにまで迫っているのを感じる。
私は杏から、逃げ切れるのだろうか。
漠然とした不安が心の隅に降り積もったが、大急ぎでそれを振り払い、家に向かって早足で歩きだした。
201025