◆various◆

□百万回目の茶会T
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西域の片隅に、蓮の浮かぶ池に囲まれた村があった。
その中央の小高い丘の上には、疎らに生えている曙杉に囲まれるようにして一軒の小さな庵がある。
華美でもないが荒屋程痛んでいる訳でもない。
蘇芳色の屋根や壁は紅葉によく合う様相で、しかし建物よりも目を引くのは、庵の傍にある、直径が五尺余りの樟の切り株だった。

東の空がぼんやりと白む明け方、細身の影がそろりと庵の中から姿を現わす。
翠色の着物を身に付けた影は両手に盆を抱えて、更に丸めたお手製の座蒲団を小脇に挟んでいる。
少々断面の歪な樟の切り株まで近付くと平坦な部分に盆を置き、傍に座布団を敷いて腰を下ろした。
盆の上には茶器が据えられていた。
急須が一つと、湯呑みがあり、蓮の模様が描かれている。
急須を手に取り傾ける。
薄っすらと緑色をした液体が、湯呑みの中に渦を巻きながら注がれていく。
ひんやりとした空気の中を立ち昇った湯気があてもなく漂い、肩口で緩く結われた黒緋色の髪、淡い夕焼けを彷彿とさせる鴇色の瞳の周囲に纏わり付いた後に霧散する。
急須を置き、湯呑みを手にした。
縁に寄せた薄紅色の唇からほうと漏れた吐息が、湯気を散らせる。
熱い液体が喉を通り抜ける最中、鼻腔を擽ったのは白桃の香りであった。
下ろしていた瞼を持ち上げ、再び盆を一瞥する。
実は急須の影に隠れるようにして、もう一つ湯呑みがあった。

「(ああ、また…いつもの癖で。
きっともう、要らないのに)」

瞬きを数回し、湯呑みから目を逸らす。
鴇色の瞳に感情の色は無い。
そして濛々と舞う湯気の向こう側で、刻一刻と山並みを白く縁取る曙光を、無言のままひたすらに眺めた。

***

彼の人は、大きくてたくましい樟がまだ健在だった頃、唐突にその枝葉の隙間を縫う様にして舞い降りてきた。
独特な風貌と化粧、微かに紫がかった美しい銀髪は一目で脳裏へと焼き付いた。
十数年も前の、静謐な星月夜の事であった。

「…私は通りすがりの者です。
偶々、この木の上で休んでいた訳ですが」

十数秒に渡り声も上げず、木の根元に腰掛けたまま仰ぎ見ていた所、降り立って来た彼の人自らが第一声を放った。
低くも高くも無い、中性的で穏やかな声だった。
偶然木の上で休んでいたと真顔で説明する感性自体が珍しいと言うより個性的過ぎて、鳥か何かの化身かと疑わずにはいられない。
否、何処と無く猫のようにも見受けられる。
兎にも角にも、先手を打たれては応えない訳にはいかないため、

「…何か、私に用が」

尋ねながら、無意識の内に背筋を伸ばしていた。
猫、又は鳥の化身が薄い笑みを浮かべて言う。

「特段、あなたに所用があった訳ではないのです」

少し、意味が分からない。
と拍子抜けした。

「では、物音が耳障りだったとか」
「いいえとんでもない。
気になっていたのは音よりも」
「?」

底無しに暗い漆黒の瞳が少し目線を逸らした。
目で追うと、お膝元に抱えていた盆の湯呑みと急須を見つめている事が分かった。
何の手違いか、偶然にも湯呑みを二つ庵から持ち出して来ている。
続け様に彼の人は口を開いた。

「休んでいた所に、いい香りが漂ってきたので少し気になりましてね…
人の世にもこの様な香りのするものがあっただろうかと」
「…懐かしむ様に言うのね」
「ええ、人が地上で暮らしを営む現世を離れてから、かなり経ちますから」

そう年老いているようには見えないが浮世離れした事を口走る人であった。
しかし言いたい事は何となく分かったので、

「はあ…飲まれますか、もしよければ。
お口に合うかは分からないけれど」
「そうですね、頂けますか」

あまりにも即答だったので、相当久方振りに苦笑しながら、余っていた湯呑みを手に取る。
急須を傾けると湯気が舞い上がった。

「…どうぞ。
村で作っている青茶の葉に…干した白桃を細かく砕き、混ぜ入れてみたの」
「それではお言葉に甘えて頂戴します」
「…」

掴みにくそうな手袋を填めたまま器用に湯呑みを受け取った彼の人の、無邪気で嬉々とした顔を覗く。
最初から一杯馳走になりたいと言えば、ただの一言で済む事なのに、こちらから誘う様に仕向けたかったらしい。
浮世離れすると、何処か少し回りくどい言い方をしてしまうものなのだろうか。
しかし、決して相手に嫌な印象を与えない人でもあると感じた。
彼の人は僅かに目を見張ると、

「思った以上の味です。
淹れる人の手腕も無関係ではないのが、茶の醍醐味でもあるでしょう。
これまで沢山のお茶を試してきましたが、五本の指に数えられる程、中々美味しい」
「…そう。
それは、良かった。
この明け方の星を見ながら一服するのが、一日の中で一番の愉しみだと、私は思っているの」
「成る程。至高の贅沢ですね」

鴇色と漆黒の双眸が、無数の星を見上げる。
彼の人はその一杯を嗜むと満足したように樟の上へと戻って行ったので、自分も庵の中に帰ることにした。
後々になって、さりげなく褒められていた事に気付いた。


end



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