桜月夜3

□99.天香丹桂
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金木犀の甘い香りがふんわりと香る夕暮れ。
故郷に咲く小さな花と同じ香りが、いつの間にか忙しくて、イライラしていた心を癒やしてくれる。
星野はちょっと懐かしくて幸せな気持ちになりながら、自宅にしているマンションに入った。
手洗いとうがいを済ませ、手早く普段着に着替えると、奥の部屋に続くドアを開けた。
その奥の部屋のシンプルなベッドには、ハニーブラウンの髪に、透けるような白い肌、中性的な顔立ちが印象的な美少女が背中のリクライニングを起こして座っていた。
筋力が落ち、痩せ細った身体は柔らかいブランケットにうまく隠されている。
星野の最愛の恋人のはるかだ。
「ただいま。はるか」
「おかえり」
事故の後遺症により、全身が麻痺したはるかは、ひとりでは起き上がる事も出来なくなり、排泄も感覚がない為に、紙おむつをして、ずっとベッドに横たわったまま、暮らしている。
今日は、誰かに座らせてもらったのだろうか?
「体調は良いのか?」
「いいよ」
「みちるさんに座らせてもらったの?」
「うん」
そう答えると、はるかはにっこりと微笑んだ。
言葉も喉に麻痺がある為に、単語しか話せないが、それを補うように表情は豊かで、上目遣いの笑顔が愛らしい。
「いいにおい」
さっきの金木犀の香りが移ったのか、甘い香りが漂っている。
「もう秋だからな。金木犀だよ」
「そう」
部屋の中でずっと過ごしているはるかは、季節が移り変わっても、わからなくなってしまった。
その事に気付いたはるかの顔から、さっきまでの微笑みが消え、憂いを帯びた表情に変わる。
お互いが切ない気持ちになってしまう。
切ない気分を変えようとした瞬間、はるかのマンション側の玄関から元気な声がした。
「ただいま〜はるか。星野さん、いらっしゃい」
相変わらず、可愛らしいほたるちゃんが愛想よく微笑む。
「ねぇ、はるか。みちるは?」
「おしごと」
「何時頃、帰るか、分かる?」
「メモあるよ」
机の上に置いてあったメモには、みちるの几帳面な文字で、帰宅時間が遅くなる事、ほたるの夕食は冷凍庫の物をレンジで温めて食べる事と、はるかの夕食は直接、胃に通してある胃ろうのチューブに液体の栄養剤と水分、あと薬を入れてねという事が、書いてあった。
「なぁ、俺もこっちで食べていい?」
「わぁ!嬉しい。良いよね、はるか」
はるかはしょうがないなといった表情で、頷いてくれた。
本当はちょっと笑ったのを俺は見逃さなかったけど。
自室に戻り、デパ地下で買ったお惣菜と、コンビニの新作お菓子を手土産に持って、お隣りへ行こうとした時、メイク道具を入れている鞄が、ふと目に留まった。
そういえばこの前のロケで買ったお土産をこの中に入れたような。
慌てて探してみると、それは確かにその鞄の中に入っていた。
小さなものなので、シャツの胸ポケットにそれを押しこみ、内側からお隣りへ続くドアを開いた。
「はい、ほたるちゃん、これ、コンビニの新作お菓子」
「ありがとう。これ食べたかったの」
そんな俺たちの様子をはるかはにこにこしながら見ていた。
和やかな夕食も終わり、ほたるちゃんは、宿題をしに自分の部屋に行った。
ふたりっきりになった部屋で、はるかを抱きしめると、シャツの胸ポケットから、あのお土産を出した。
「これ、ロケのお土産。はるかはお菓子で良いって言ってくれたけど、もっと良い物があったから、それにした」
俺がはるかの為に選んだお土産は、可愛らしいうさぎの形のケースに入った金木犀の練り香水だ。
これなら食べる事の出来ないはるかでも楽しめる。
「ありがと」
はるかの細い手首に少しだけそれを塗ってみた。甘い香りが身体を包む。
「うれしい」
そう呟くはるかの大きな青い瞳が潤んでいた。
「なぁ、伝説では金木犀は月に咲く花で、花言葉は気高い人っていうんだ。はるかにぴったりだと思ったよ」
「セイヤ」
はるかを優しく撫でて、少しずつきつく抱き寄せると、俺の頬に柔らかなものが触れた。
彼女はいたずらをした子供みたいに微笑んだ。
「可愛いよ、はるか」
そして、はるかをそっとベッドに寝かせ、いつしか俺たちは、生まれたままの姿で愛しあった。
はるかの動かない細い身体も、不格好なあの下着でさえも、全てが愛おしい。
優しく抱きながら、透きとおるような白い肌を撫でる。
しばらくして、小さな声がした。
「あまりみないで」
「なんで?」
「きれいじゃない」
「俺は、この身体が好きだけどな。細い手足も、大きな瞳も、その優しい唇も」
彼女はやっと嬉しそうに微笑んだ。
「セイヤ、だいすき」
「うん」
その笑顔を見ていると、金木犀のもうひとつの花言葉を思い出した。
それは、真実の愛という言葉。
儚いけど、幸せな時間。
fin.
2015.10.20.
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