小説本文
□射線
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扉を開けた瞬間の喧騒と襲いかかるような強い酒精にキッドは機嫌良く口角を上げた。馴染みの酒場の慣れた空気を潜りながらカウンターへと向かう。
喧嘩を売ってくる自殺志願者や取り入ろうと酒瓶を傾けようとしてくる者の居ない、客同士の距離感が生きた貴重な酒場だった。時折、酔いに任せて「キャプテンキッドに乾杯!」と笑いながら杯をぶつけ合う音が聞こえてくるがキッドはそちらに目を向けることもなく歩を進める。
カウンターに座りいつもの酒を頼む。
その筈だったが思わず足を止める。
カウンターの周囲が不自然なまでに静かで客が寄りついていない。たった一人だけ見慣れない客が腰かけているだけだった。
波打つ髪と華奢な後姿から女とわかるが、堅気の娘はまずこんな店に寄りつかない。かと言って春を鬻ぐ手合いにも見えない。
得体の知れない女から二つ三つ離れた席にどかりと腰を降ろしたキッドはカウンターに並ぶ酒瓶の反射を受けて輝く横顔を眺めた。
上玉だと思った。
同時に海賊だともわかった。
長い睫毛に縁取られた目がちらりとこちらに向いたがすぐに興味を失くして手元のグラスに視線が戻る。
キッドはその素っ気ない態度に逆に惹かれた。グラスの中身が味は良いが度数も高い酒、己の気に入りの銘柄でもある酒だと気がついて頬が歪む。
酒の趣味が似ている奴に外れはない。
同じ物を注文するとすぐに濃い琥珀色の液体が満ちたグラスが出される。
キッドはそれを一息で煽った。
そして驚くべき事に隣の女も間髪入れずグラスを干した。たんっとカウンターに置かれたグラスは終わりを意味する。
「私の分は後ろの連中に請求して頂戴」
ぞくりとするような一瞥で酔い潰れている一団を指す。キッドは席から立ち上がろうとする寸前で引き止めた。
「良い飲みっぷりだ。奢るからもう一杯どうだ?」
「ありがとう、でももう充分飲んだから」
にっこりと拒否された。内心はむっとしたが口は何故か逆の言葉を吐く。
「ここの取っておきでもか?」
キッドが睨むとカウンターの奥で黙々と酒の支度をしていた店主が溜息を飲み込みとカウンターの奥へと消えた。すぐに戻ってきたその手にある瓶を見て女は目を輝かせる。すると意外な程幼く見えた。大人びているが実際はまだ若いのかもしれない。
大き目の氷が落とされたグラスに赤い酒が注がれ澄み渡った音が響く。どちらとも乾杯すると自然な動作で嚥下する。
「あんたみたいな髪の色ね」
女は滑るようにグラスの縁を愛撫する。
キッドはその細い指を手折りたい衝動に狩られて手を伸ばしたがするりと避けられて舌打ちする。
「酒よりも俺のほうがもっといいぜ」
「噛みついてきそうだもん、ごめんだわ」
キッドは眉間の皺を深くする。
一見愛想よく見えるが言葉の端々から険を感じる。それに根深い類の反発も。
「…どこかで会った事があるか?」
「呆れたわ…こんな美女を忘れるなんて」
言いながら女は赤く濡れた唇を一舐めし、ぞくりとする色気にキッドが粟立ったのも束の間、まるで子供のように舌を出した。
「人間オークション会場」
悪戯っぽく見えるがその実値踏みしている視線に晒されキッドはそれを正面から睨み返す。オークション会場を見物している最中、後から入ってきた麦わら一味の中にそういえばきゃんきゃんと騒いでいた奴が居たような気がする。
「人を売り買いする奴なんて嫌いよ」
「見てただけで参加はしてねえ。おれは人道的だからな」
「下手な冗談ね」
「本当だからな。だから海賊王になるのは俺だ」
捉えどこのない作った表情が初めてさざ波だった。一瞬の事だったがそれが愉快で堪らない。
「海賊王になるのはルフィよ」
打てば響くように返ってきた言葉も予想できたものだった。だがその声音に含まれた甘やかな信頼、うっとりとした狂喜に高笑いしたくなる。
取り澄ました姿を剥ぎ取って本音を引き出す楽しさ。もっと蹂躙したいと思う嗜虐性がキッドの凶暴さを加速させる。
「いいや俺だ。俺の所に来いよ泥棒猫」
しゃべりながらようやく思い出した。
泥棒猫ナミ。
もう少し驚くかと思ったが婉然と微笑みたっぷりと小馬鹿にした仕草で酒を飲み干す。
「私に勝てたらね。一生かかっても無理でしょうけど」
いちいち神経を逆なでしてくる、
額に筋がぴしりと走ったがキッドは続けてグラスを空け店主にもっと強い酒を出すよう指示する。
『海賊王になるのはルフィよ』
そう言った時の揺るぎない自信。甘さも信頼も崇拝も込められた絶対的な言葉。
そういう物を壊すのがキッドは得意だった。
粉々して自分の物として作り変えたい。あの毒を孕んだような狂喜の眼差しが注がれると思うとぞくぞくする。歪んだ愛情を滾らせるキッドをナミは冷めた目で見据える。そんな考えをはうんざりする程見てきたと言っている様子だった。
激情と冷淡。
二人の間に反発する火花が走る。
ゆるゆると酒が満たされた時、静かに火蓋が切って落とされる。
終