そのオトコ、甘党につき

□第一章 菓子工房HARUNA
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事の起こりは数十分前──


「今日もお疲れ様でした。芙美(ふみ)ちゃん、休憩スペースの片づけをお願いします」

「はぁい」

店内の掃除をアルバイトの芙美に任せると、あさひは店外に置いている小さな看板を店内に戻す為、入り口ドアを開けた。

夏の夕暮れ時独特の生温かい風が吹きこんでくる。

夜七時、見上げれば空はまだほんのりと夕陽のオレンジを残している。

なんとも言えない気分になって、あさひは空からゆっくりと目を逸らした。



行列の出来る繁盛店でもなければ、パティスリーなどと名乗れるほどにオシャレでもない。

ショーケースに並ぶ商品だってオーソドックスなものが多い。

『手作り菓子工房 HARUNA』は気取らない佇まいの、いわゆる「街のケーキ屋さん」である。


榛名(はるな)あさひ、24歳。

アルバイトの芙美と自分の二人で細々とではあるが商売を成り立たせている。

正直、オーナーなんて荷が重いのだけれど仕方がないのだ。

つい半年前までは母がオーナーで、あさひはそこで母と共にのんきにケーキを作っていた。

けれど母は逝ってしまった、交通事故であっさりと。

呆然としていられたのは一瞬だけ。あさひには泣いている暇も悲しんでいる暇もなかった。

葬儀、相続、今後の生活…現実的な問題は感情などお構いなしに押し寄せてくる。

売り場担当の芙美と、親友の春霞(はるか)をはじめ、頼れる友人達が葬儀から何から親身になってくれたおかげで、なんとか喪主として母を見送ることが出来た。

そして四十九日法要の翌日から…あさひは店を再開することにしたのだ。


母の作る菓子のファンは多く、常連客で店は常に賑やかだったし、笑い声で満ちていた。

皆に母を忘れてほしくなかった。

自分も、母の味を忘れたくなかった。時間が経てば経つだけ、記憶が薄らいでゆくような気がしていた。

それに商品づくりに没頭できるのは都合がいい。

バターや砂糖の甘い香りに包まれている間だけは、自分が一人ぼっちになってしまった事を忘れていられる。

早朝から動き回って疲れ果て、夜は倒れるようにベッドへ。

あさひはこの数か月、ずっとそうやって過ごしてきたのだ。


仕事に関しては、まだまだ大変な事のほうが多い。

今までは母と二人でやってきた事も、一人でこなさなければならないからだ。

でも、売れ残りを廃棄するような事態には一度も陥っていない。

ショーケースに並ぶ菓子は、情けない事に母が生きていた頃の半分以下だから当然かもしれないけれど。


「ちゃんと月子さんの味を受け継いでるわよ。大丈夫よ、あさひ」

それでも親友の春霞は、ケーキを食べてそう言ってくれた。

彼女は決して嘘をつかない人間だ。だから少しは自信を持っていいのかもしれないと思う。

芙美も、休むことなく働いてくれている。その存在だけでどれだけ励まされる事かかわらない。

彼女は十八歳の時から『HARUNA』でアルバイトをしてくれているベテランだ。もう四年になるだろうか。

あさひにとって完全に、同志的存在なのだ。

もしまったく一人でこの状況に放り込まれていたら…店を再開出来ていたかどうか自信がない。


それに近所の人たちがとてもよくしてくれる。

町内会の総会、ちょっとした主婦の集まりに出すおやつなどに、あさひの店のお菓子をわざわざ選んで買ってくれたりするのだ。

(皆に甘えてばかりいないで、もっとしっかりしなくちゃね)

母の大切な店。

あさひにとって唯一、自分にも家族がいた事を証明できる場所。

もう自分にはここしかない。

なくしたくないから必死になっている。

あさひは自分がまだまだ未熟であることを十分に自覚していた。







いつものように看板を店内にしまいこみ、入り口付近をほうきで軽く掃く。

「──!!」

どこからか叫び声が聞こえたような気がして、あさひはふと、目線をあげた。

「…?」

通りの角から男が一人、猛烈な勢いで飛び出してきたのが見えた。

(──え…)

本能が告げた。あの男はおかしい。 だって手に刃物を持っている。

しまった…と瞬時に思った。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。

だって目が合ってしまったのだ。

案の定、男はあさひに向かって一直線に走ってきた。



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