そのオトコ、甘党につき
□第二章 オレンジ色の夕陽
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──翌朝。
医師の診察を終えた後、あさひは携帯電話の通話可能なエリアに移動して一番に芙美に電話を入れた。
あさひが芙美を心配したように、芙美だってきっと、めちゃくちゃ心配してくれている。
佐原がある程度説明してくれて、納得して帰ったとは聞いていたけれど…
もしかしたら、いや絶対に、彼女は自分を責めているに違いない。
昨晩は頭が混乱していた事もあって、芙美の気持ちにまで気がまわらなかった。
本当に自分は未熟だ。
芙美はすぐに電話に出た。その声はすでに涙声。
「あ、あさひさん〜…」
声に申し訳なさが滲んでいる。
もしかしたら一睡もしていないのではないか。
「芙美ちゃん、心配かけちゃってごめんね。私、どこも怪我していないし大丈夫だから。むしろ元気になっちゃったかも」
あさひは明るい声でそう言った。
これは決して嘘ではなく、点滴のおかげなのだろうか、身体の怠さが本当に少しだけマシになっているのだ。
「私のせいで…ごめんなさい」
けれど芙美の気分は落ち込んだままのようだ。
仕方なくあさひは少し語気を強めた。本当に芙美のせいなんかではないのだから。
「芙美ちゃんは何も悪くないでしょ?そんな事より芙美ちゃんがいないと明日本当に困っちゃうから…だから元気な姿で来て。お願いね」
芙美を元気づける為もあるのだが、実際そうなのだ。
芙美がいてくれるおかげで、あさひは菓子作りと事務作業に集中出来ている。
もちろんあさひだって店頭に顔を出す。だが接客の主な部分は芙美にまかせている。
あさひより二歳も年下なのに、芙美は接客能力抜群の、本当に優秀なバイトさんなのだ。
母がいた頃は休みもあげられたのだけど。
今は定休日以外不休で働いてくれている。
本当に申し訳ないとは思うけれど、芙美がそうしたいと言ってくれているのに甘え、頼ってしまっている。
「…そう言っていただけると嬉しいです。それじゃ、明日」
これ以上何か言って、あさひを困らせたくはないと思ったのだろう。
芙美は言いたい事を飲み込むように、明るくそう言ってくれた。
「うん、明日ね」
電話を切ると、まずは一安心。
ロビーに戻ると会計処理の終わった患者番号が表示される電光掲示板に自分の番号も表示されている。
会計を済ませ、そのまま病院を出た。
暗い病院内にいた為か、太陽の光が眩しくて目を細める。
あさひはタクシー乗り場からタクシーに乗り込んで店に向かった。
今日は火曜日。たまたま店の定休日だった。
ラッキーだった、と言っていいものかはわからないけれど。
とにかく元々休みなのだから、一晩入院しても店には影響がなかったのだ。
店の前でタクシーを降りた。
いつも通りの静かな街。昨晩起こった事などまるで嘘のように、いたって普通だった。
通りがかりの何人かに「大丈夫?」などと声を掛けられる。
近所の人だった。
「大丈夫です」と答えると「またケーキ買いに行くからね」と笑って去っていく。それだけだった。
あさひはほっとした。
(よかった…。たいした噂にもなっていないみたい)
明日は普通に営業できそうだ。
◆
店の裏口から休憩スペース兼事務所に入り、まず店用の固定電話を確認。留守電を知らせるランプが光っている。
再生ボタンを押すと材料の納入業者からのメッセージだった。いつもならば昨日のうちに注文の連絡をしているのに、それが出来なかった為だ。
この季節は旬のフルーツを使った菓子が多いため、業者とは頻繁に連絡を取る。
あさひは書きこんでおいた注文用ファックス用紙に遅くなって申し訳ないという旨の一言を添えて送信した。
次は昨晩のうちに済ませておかなければならなかった事務的な処理。そして最後に前日の売り上げを集計用ソフトに打ち込む。
母が信頼していた会計士が親身になって相談にのってくれる為、なんとかあさひでも経営を続けていけている。
店を所有するという事は、ただケーキを作って売ればいいだけではないのだ。
母のやり方をそのまま踏襲すればいいとはいえ、初めての事だらけでまだ慣れない。
母が生きていた頃、あさひにはやはり甘えがあったのだと思う。ただ楽しく、おいしいお菓子を作っていればいいのだ、という気楽さが。
けれど今は違う。ケーキの味も、品質も、すべて自分だけが頼りだ。芙美のお給料だって、払わなければならない。
今までとは違う種類の責任が発生したのだ。
『何があろうと自分しかいない』
この緊張感は重い。重くて、ずっとあさひの中から消えてはくれない。
毎晩眠りが浅く眠れた気がしないのも、そのせいかもしれない。
なんだか全身張りつめている感じがするのだ。
けれど、どうしたらいいのかわからない。
肩の力を抜く方法など、あさひは知らなかった。