そのオトコ、甘党につき

□第三章 ハニードロップ
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あさひの朝は早い。7時にはもう店にいる。

あさひはコックシャツに着替えると調理場へ向かい、手際よく仕込み作業を始めた。

『HARUNA』の厨房は、店内からすべてが見渡せる造りになっている。ガラス張りなのだ。

自分の食べるケーキを、どんな人が、どんな風に作っているのか…しっかり見えたほうがお客さんも安心できる。

それが母、月子の考えだったからだ。

それに厨房側からも店が見える。お客様の反応を作り手が直に見る事が出来るのは…とても嬉しい事なのだ。

あさひはまず、スポンジ生地や土台を焼きながら、プリンやムース等あらかじめ冷やし固めておかなければならない菓子を作りはじめた。



「おはようございます。商品お届けにあがりました」

8時半。作業に没頭していると時間の経過が早い。

裏口ドアの向こうから元気な声が聞こえてきて、あさひは慌てて裏口のロックを解除した。

八百屋の配達でフルーツ類が到着したのだ。

いつもニコニコした彼は、あさひより少し年上の八百屋の跡取り息子だ。

「おはようございます。ご苦労様です」

「桃がいい季節になりましたねー。ご希望通り完熟でないものと食べ頃と両方お持ちしましたので」

「ありがとうございます」

「では!また店のほうに寄らせてもらいます」

「はい、お待ちしていますね」

彼は定期的に店のほうにも来てケーキを購入してくれるのだ。

素早い動作で所定の位置に商品を運び込むと、ペコリと頭を下げて帰っていく。

今時珍しい好青年だとあさひは毎回思っている。


それ以降はそれらを使ってケーキのデコレーションがはじまる。

焼いておいたケーキ用のスポンジ生地に、刷毛でシロップを丁寧に塗る。『HARUNA』では基本的に、シロップにはオーソドックスにグランマルニエを使用している。

パレットナイフを駆使してクリームを塗るケーキナッペや、クリームを絞ってデコレートするのがあさひは好きだ。

この作業が一番無心になれる。

開店は10時。あさひは回転台の上でケーキを仕上げていく作業に没頭した。



「あさひさん、おはようございます」

9時半。芙美が着替えを終えて厨房へやってきた。

「おはよ。今日もよろしくね」

「頑張ります」

芙美がにっこりと笑う。

(うーん、可愛い)

『HARUNA』の売り子さんの衣装は黒いワンピースにフリルのついた白いロングエプロンという、クラシック英国スタイルである。

芙美をバイトとして雇うと決めた時、完全なる月子の趣味で採用したものである。

編み込んでまとめた栗色の髪に、ひらひらの白いエプロン。やたらと似合っている。

芙美目当てに店に来てくれている人物もちらほらいるほどだ。頷ける。

先程の八百屋の跡取り息子なんかも、実は芙美目当てだろうとあさひは思っていた。





いちごのショートケーキ、グラサージュショコラでコーティングしたクラシックチョコレートケーキ、シュークリームにチーズケーキ。

定番商品をショーケースに並べていく。

プリンは定番と、ココット型に入ったクレームブリュレの2種類。

夏限定の、旬の桃やブルーベリーをあしらったタルトも毎年人気がある。

鮮度の問題もある為、一気に作り置きせず商品の売れ行きを見ながらその都度追加で作っていく。

豊富な品ぞろえでない事は自覚しているが今はまだ、これで精一杯なのだ。

芙美がレジのロックを解除し、イートインスペースを軽く拭きはじめる。

あさひはメニューを書き込んだボードを持って店外に出た。

いい天気、暑くなりそうだ。

「…今日は木崎さん、来てくれるかな」

あさひは小さな声で呟いた。

佐原の家で一緒に食事をしてから…もうすぐ3週間が経とうとしていた。



例の事件はメディアで大きく報じられたりしなかった。テレビカメラは来ていた。だからあさひは少し心配していたのだ。

でも静かなものだった。

佐原曰く「警察上部が圧力をかけたな」だそうだ。

警察官の不手際を責められてしまうと、厄介だから、なにやら大きな力が動いたらしい。

でもおかげで騒ぎにもならず、すっかり忘れ去られてしまってあさひは助かっている。

その佐原は時折、署への差し入れだと言っては商品を大量に買って行ってくれるようになった。

悦子は近所の友人と一緒にほぼ毎日遊びに来てくれる。

再会してから、二人ともよく店に顔を出してくれるようになった。

ただ…木崎はあれから一度も来てくれていない。

やっぱり社交辞令だったのだろうか。勇気を振り絞って誘ったのだけど。

そんなもやもやを抱えていたある日、佐原が木崎からの伝言を持ってやって来た。

「あいつ今、家にも帰れてねえんだよ。ごめんって言っといてくれって電話があった。ごめんて何がだよ。連絡先くらい交換しとけっての。俺を伝書鳩に使うなよ」

そう言いながらも、電話じゃなくわざわざ来てくれるあたりが佐原も甘い。

そして、プリンを1ダース購入していくあたりも、相当甘い。

「ごめんねおじさん。あのね、私が木崎さんにお店に来てくださいってお誘いしちゃったから…」

よく考えたら、お互いメッセージアプリのIDも電話番号も交換していなかった。連絡の取りようもない。

それでもどうにか連絡しようとしてくれた。

「本部の奴らは常に事件数個抱えて動かなきゃならねえからなぁ。重なる時は激務だ。しかしなぁ…あさひちゃん…」

佐原がニヤニヤとあさひを見てくる。あさひは慌てて否定した。

「ち、違うのっ!甘い物がお好きなようだったから…うちの商品を食べて欲しいと思ったのっ!」

「…違うって何が?俺、何も言ってねえけど」

「…っ!」

佐原は完全に楽しんでいる。

「ははは。あの甘党が誘われて断るわけない。あいつこの前、あさひちゃんのゼリーとケーキすげえ気に入ってただろ?」

「…そう、かな」

(そうだ、きっと社交辞令なんて言うような人じゃない)

来ると言ったのだから、来てくれる。


それ以来、あさひは毎日一種類だけ、おすすめ菓子を取り置いている。

もし来てくれたら、それを渡すつもりで。来なかったら自分で持ち帰って食べるだけの事だ。

一昨日はチーズケーキ、昨日はショートケーキ。

今日はクラシックチョコレートケーキを選んで調理場の冷蔵庫にそっとしまった。

結局毎日のように自分で食べている。あさひはそれでも構わなかった。


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