そのオトコ、甘党につき
□第六章 スイート・ホーム
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椅子を並べて小一時間ほど仮眠をとっていた木崎は、浅い眠りから目を覚ました。
とはいえ、帰れない日もあれば夜通し捜査している事だってある。こういった不規則な生活にはもう慣れているのだが。
寝た姿勢のまま腕時計を確認すれば、7時を指している。早ければ、もう登庁してくる人間がいるだろう。
コーヒーでも飲んで目を覚ましておくか、と起き上がろうとした時…入り口付近から誰かの話声が聞こえてきた。
「美保さん、飲み物買ってきますよ。いつものミルクティーでいいですか」
「そうね。ねえ渡辺くん、ここでは冴木係長って呼ぶのよ。また忘れてるわね」
「おっと、そうでした」
男女の関係を匂わせる会話が指し示す事実はひとつ。とりあえずのところ、木崎は息を潜めるしかない。
(…なるほどね、プードルの飼い主は係長だったか)
遠ざかっていく渡辺の足音、そして近づいてくる係長の足音。おかしな状態で寝転がったままの自分……はっきり言って間抜けである。
コツコツというヒール音が、頭上で止まる。
椅子に寝転んだ状態のまま、冴木係長と目をあわせる羽目になった木崎は開き直る事にした。
「…どうも。おはようございます、冴木係長」
仕方がないと言えるだろう、木崎は起き上がるタイミングを失ってしまったのだから。
可能な限りニコヤカにしたつもりだったが、ふざけた状況に違いない。係長は片眉をあげて木崎を見下ろしただけだった。
──『渡辺くん』が『美保さん』と呼んだところの『冴木係長』とは。
冴木美保(さえき みほ)警部補は、木崎よりも4つ年上の40歳にして、木崎の所属する係の係長…つまり頭の上がらない上司である。
普段ニコリとも笑わず、上からは愛想がないとよく言われているが言われた本人は気にもしていない。
キャリアでもない女性警察官が、この年で本庁捜査一課で係長に上り詰めた事実だけで、優秀さは証明されているのだ。
「おはよう。木崎君、早いわね。…泊まり?何か徹夜するような案件あったかしら?」
「いや、ちょっと気になる事がありまして調べ物を。…仮眠とってたんですよ」
木崎はそう言いながら椅子から上半身だけを起き上がらせると背広を着こんだ。
何か言いたげで、だが決して口を開かない冴木に、木崎は仕方なく自分から口を開いた。
「誰にも言いませんよ。同課、同係の上司と部下であれば関係を隠しているのも無理ないでしょうしね。ご心配なく」
お堅い印象の女係長と、可愛い顔してなかなか仕事の出来る後輩プードル渡辺がどんな関係であろうと。
二人はそれを職務に影響させるような人物ではないと木崎は知っている、それで十分だ。
「…年齢の事は言わないのね。女が10歳年上なの、珍しいでしょう?」
木崎は少し驚いていた。断じて渡辺と冴木の年齢がだいぶ離れているとか、そういう事が理由ではない。
冴木が弱音、実際には弱音とは言えないほどのものだが──らしきものを吐いたからだ。
彼女は徹底した無表情、無関心を貫き通す。自分の心の内を見せる事など、これまでなかったのだ。
「別に問題はないと思いますけどね。本人同士がよけりゃそれでいいじゃないですか。俺も人の事言える立場じゃないんで」
木崎が目じりを少しだけ下げて笑うと、冴木もつられたように少しだけ微笑んだ。
笑ったか笑わないか…よく見ていなければ気づかないくらいの笑み。
だが、いつも張りつめていて笑うような人間ではなかった。
渡辺との交際が彼女をそうさせたのだろうか…木崎は心の底から感心した。
自分にはそれが出来ているのだろうかと自問自答する。
最後に見たあさひの表情は、笑顔には程遠い…不安と悲しみに溢れたものだった。
「…俺、しょうもねぇな」
木崎は一人呟くと、デスクに戻っていく冴木と入れ替わりに立ち上がり部屋を出て鑑識課に向かった。
どんな時間になろうと今夜は必ずあさひに会いに行く。今度こそ、彼女を安心させる為に。
木崎はそう決めた。
だがそれは実現されなかった。
数時間後、佐原からの電話で事態の急変を知ったからである。