みさ

□n回目の15歳
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 足元をほぅと夏の生温い風が撫で上げる。周りを見れば眩しいネオンの街。覚悟なんていらなかった。まるでそこにまだ地が続いているかの様に少年は足を一歩、踏み出した。目下には痛いくらいに目に突き刺さるネオンが迫っていた。



n回目の15歳

彼は母親似の、まるで女の様な自分の顔が嫌いだった。特に美少女顔な訳では無いのだが、大きな瞳のたれ気味な目や顔の真ん中をスッと通る低くも高くも無いが小ぶりで形の整った鼻、その下にちょこんと居座るまるで薄く紅を引いたかのような肉厚の唇。加えて焼けにくい体質の為に年中真っ白な肌はさして手入れもしていないのにもちもちと白玉の様な質感を保っている。同じく手入れもせず無造作に伸ばした鴉色の髪も枝毛がなく常にキューティクルを宿らせている。更に156pという低身長は彼の女っぽさを助長させる。
物心ついたとき、その視界に母の姿は無かった。死んだのか、男を作って出て行ったのかさえも分からない彼女は残された少年にとっては既に故人だった。形見といえる女顔は気に入らない。父は仕事で毎晩遅く、幼い頃から少年は広い家に独りで育った。保育園に通っていた頃は家政婦が居てくれたが、小学3年生になり少しの家事を覚えた頃に彼女達はすっぱりと来なくなった。
父は中堅会社の代表取締役をつとめ、家計は他の家よりは少し上の方で安定していた。欲しいと言えば大抵のものは買ってもらえた。ただし、そんな父の帰りは遅く、家政婦や息子――相川翔の作った夕飯と食後に一杯の日本酒を飲む。最初の頃、手加減が分からずに焦がしてしまった野菜炒めを、父は無言で咀嚼していた。それが父としての愛だったのかただ単に味を気にしない性質であったのかは翔には分からなかった。
夕食後に、父はシャワーを浴びる。その間に翔は食器を洗い、床に入る。シャワーからあがった父が素直に寝てくれればいいのだが、彼は時々酷く苛立った様子で布団の中の翔を無理矢理起こし、暴力を振るった。年を重ねるにつれ、暴力はどんどん悪化し、頻度も増した。翔の白い腹には必ず青や紫の痣が咲いていた。翔の事を翔と認識していればまだ良い方で。「お前の母親は最低な奴なんだ」「これは躾だ。あいつみたいにならないように躾けてるんだ」などと叫んで殴りつける。最悪なのは翔を元妻と誤認している場合で「何故置いて行った」「この裏切り者」と罵り、いつも以上に容赦の無い拳が降りかかる。そんな次の日は全身がバラバラになりそうに痛み、学校を休む事が多かった。しかし翔が彼を憎く思った事は一度もない。むしろ、いつまでも自分の知らぬ母親の影を追い続ける彼が堪らなく可哀そうで、痣や傷だらけの痛む腕で父親を抱きしめる。彼は、一通りの暴力を終えた後に涙を流して謝ってくるのだ。その態度でつい加害者を許してしまう事がいけない事だとは分かっている。それでも、DV被害者の大半は分かっている筈なのだ。自分たちは歪んでいる。暴力を振るわれることに、彼らに求められる事に自分自身が依存してしまっているのだ。分かって、自覚していながら、翔は今日も歪な愛情を以てしてこういった時にだけ小さく見える父親の背に腕を回すのだ。
「翔、しょう…ごめんなぁ。痛いよなぁ」
 日付は変わり、時計の針の音がやけに大きく聞こえる真っ暗な部屋で親子は抱き合う。


 そして、高校に入った時にそれははじまった。毎晩の様に振るわれる暴力に耐えつつ、必死で勉強した末に入学した私立高校。虐待よりも尚恐ろしい、無邪気な地獄だ。自分たちが絶対の正義だとでも言うように弱弱しく震える羊を殴り、蹴り、脅す。彼らに罪悪感などというものは存在しないのだ。そのくせ地に伏した羊が動かなくなると顔を真っ青にして逃げ出す。それを繰り返すだけなのだ。
 きっかけが何だったのか何て、もうどうでもよかった。ただちょっとムカついたから。女顔で、チビで、暗い奴が教室の雰囲気を悪くしていたから。これは、その制裁なのだ。教室の安定にはが必要なのだ。翔は育った環境の所為か彼は自分を評価しようとしない。DVは、誰も悪くない。いじめは自分が悪い。家でも暴力、学校でも暴力。心の休まる暇が無いままの生活である日突然、父親が死んだ。心筋梗塞だった。その二日後、とある高層マンションの下でそこに住む少年らしき人物の死体が発見された。新年度もはじまり、まだ春の心地が抜けきらない初夏での事件だった。


『少年の死体に多数の痣が見られた事から警察は学校でのいじめや家庭内での虐待を視野に入れ調査を進める予定ですが、父子家庭であった少年の父親は数日前の七月二十二日に死亡しており、そのショックによる自殺ではないかという意見も見られます。なお、死亡推定時刻とされる死体発見時の前日、同月二十三日は少年の誕生日だったという事が分かり近所の人々も若くして亡くなった少年に同情の言葉を寄せ…』


 ――ふと、目が覚めた。布団の中で小さく伸びをしてもそもそと這い出る。そこで違和感。身体が軽く、どこにも痛みが見受けられなかった。長年消える事の無かった、もはや慢性的で継続された痛みがさっぱりと消えていたのだ。不自然な事実に痛覚が麻痺したという推測もされたが髪を引っ張ってみると確かに痛い。夢では痛覚が無いともいうが真偽の程を知らないので夢という可能性もある。試しに、ふかふかで寝心地の良い布団から抜け出してみた。ひたりと冷たい感覚がして、その瞬間足の力が抜けた。床が目の前に迫り咄嗟に手を突き出そうとするも身体は思うようには動いてくれなく、結果顔面だけは避けるように横に転がった。
ぽてり。
痛みは殆どなく、なんとなく転がった感覚だった。
「ふぇ…」
 知らずの内に口から出たのは言葉とは言えない喃語のようなもので自分の記憶する声より少なくとも1オクターブは高く感じた。
「うぇああああああん!」
 口が知らぬ間に吐き出した泣き声は、痛みから来るものではなく驚きによるものだった。すぐにバタバタと足音が聞こえ自分の身体が抱きあげられるのを感じた。涙で歪んだ世界に見えたのは最初の家政婦の顔だった。
「大丈夫ですか?痛かったね、驚いたね、大丈夫ですよ。私がいます」


 温かい温もりに抱かれつつ唐突に理解した。頭の中に電流が走った様に、全てを理解した。
 相川翔は人生をもう一度やり直すことになったのだと。それは覆しようのない世の理と同じような感覚で“そういうものなのだ”と分かっていたのだ。


 何の覚悟もないふらりとした自殺の末、翔はパラレルワールドのようでいて結局はそこまで変る事の無い人生を何度も送ることとなったのだ。
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