青氷姫


□Overture ―蒼青―
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 雲ひとつない空。薄桃色と水色が溶け合って水平線の藍を押しのけてゆく。
 滑るように飛ぶ青い不死鳥。昇り始めたばかりの朝日を受けて、否、自身の放つ光でキラキラと金色に煌めく翼。目を奪われる圧倒的な存在感。

「綺麗……」

 まるで上空の不死鳥の青を映したような深い青色の瞳の少女が空を見上げた。年の頃は16、7。あどけなさを残しつつも大人びた憂いを湛え、大海原を往く船の甲板に独り佇んでいた。彼女の名はアレッタ。まだ誰にも名乗ったことのない大切な名前。この船の前に5年ほど乗っていた船で名のった名前は『アリー』。少年の姿をするようになってからは『アレン』。どちらも本名ではなかった。

 濃い青色の瞳と深い青の髪。この姿を見られたら、その人の記憶に蓋をせよ。そう聞かされたのは幼い頃。誰にどうして教えられたのか、そんなことすら思い出せないほど前のこと。あの上空から私の姿は見えてるのだろうか。前の船の船長を恋しがって泣いていたはずなのに、見惚れているうちに涙が止まって変身が解けてしまうほどの、美しい青い鳥。

 この船に乗る時に選んだ姿は少年『アレン』。つまりこの船のクルーにとって、今の自分は甲板に突然現れた不審者。見知らぬ女。皆が起き出してくる前に元の姿に戻らなければ。頭の中で少年の姿をイメージする。前の船の船長、ホワイティ・ベイが『悪くない』と誉めてくれた少年の姿。体が小さくなる。髪の色も瞳の色も黒みが増す。肌の色も少し変えて、出来上がり。しまった、ベイ姉さまのことを思い出したら、また涙が零れてきた。

『〜夕暮れに思い出す あのひとの 笑顔』

 懐かしさを漂わせる古い舟唄のメロディ。誰かが小さな声で口ずさんでいる。いつの間に人が傍に来てたなんて。でも……。

『夜のとばりが下りて 今夜は涙に暮れても』
『朝が来たら 果てしなく広がる空』
『漕ぎ出そう また次の海へ』

 胸に染みるハスキーな歌声。いつの間にか悲しい気持ちは薄れていた。しかも、思わず聴き入っていて油断したらしい。気づくと目線が少年の時より高い。ハッとして目を上げると、歌っていた男と目が合ってしまった。

 不死鳥マルコ。さっき遥か上空を飛んでいたのは彼だ。身動きできずにいると、ゆっくりと立ち上がった彼は目の前まで来て、私の顔を覗き込む。

「……誰だ?お前……」

 彼の静かに威圧する雰囲気に呑まれて、正直に答えそうになってしまった。困って下を向くと、ピリッと軽い刺激があって、顎に指をかけられて上を向かせられる。自分と似た色の瞳。でも宿す光の強さが断然強い。無意識に見惚れていたのだろうか、彼が、そんなに見つめると穴が開いちまうよいと笑った。頬が真っ赤になってゆくのが自分でも分かる。

「……可愛い顔で見つめやがって。このまま答えねぇと……俺はお前を喰うかつまみ出すかすることになるんだがよい」
 彼の目が光った。当たり前だが警戒されている。何と答えるか。迷うはずのないことで迷ったその時、船内から複数の男たちの声が近づいてきた。もう迷っている場合じゃない。

「忘却の薫りを風に、貴方に」

 彼から一歩下がる。記憶の引出しに鍵をかける。一陣の風が記憶にまつわる空気を浚う。自分の姿も少年のそれに変える。一瞬の後、風が収まる。突風に目を細めていたマルコが私を見る。

「……何だよい?」
「…………おはようございます」
「……おう。早起きだな」

 うっかり見つめ続けていたらしい。不審がられてしまった……失敗。でも明け方、甲板に出てきた時の重苦しい気分が嘘のように軽くなっていた。現状は何も変わっていないのに沸き立つような気持ちになって、この船、モビー・ディック号も悪くないと思えてきた。きっと朝日を浴びる綺麗な青い鳥を見られたから。胸が熱くなる、甘い歌声を聴けたから。口許が緩むのを隠して、私は食堂に足を向けた。

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