Dreams - Long

□プロローグ
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「……スミレ、スミレ!」

遠い意識の向こうで、しいちゃんの声がしている気がする。

下腹部が重い。頭が痛い。
思考に霞みがかかったみたいになって、少し寒かった。

「スミレ、しっかりして!大丈夫!?」

薄く目を開けると、心配そうな友達の顔が目の前にあった。

「……しいちゃん? 私……、どう、したんだっけ?」
「トイレで倒れてたのよ! もう〜、心配したよ!気がついて良かった!」

焦った声を聞いて、だんだんと記憶が戻ってくる。
見慣れない天井。
そうか、私……ライブに来てたんだっけ。
素晴らしかったピアノの演奏。
銀髪の男の人。
ライブが終わって、拍手の音がして、それから……

どうしたんだっけ?

「ちょっとごめんなさい。失礼しますね」

ぼんやりしていると、目の前にあったしいちゃんの顔が、別の人の顔に入れ替わった。

肩までの銀髪。紅く塗った濃いめの口紅。
切れ長の目と、長い睫毛……

知らない顔だった。
でも、銀髪でスーツを着たこの姿は、確かさっきまでステージでピアノを弾いていた……

「べ、」

ベイビー!

と言おうとして、声にならない。
なんでなんでなんで。ベイビーがこんなに近くに!

「ベイビーとマネージャーさんが楽屋に運んでくれたんだよ」
しいちゃんの声に、はっと周辺を見回した。
壁一面の鏡と、並べられたメイク道具、そして打ち合わせテーブル。
いかにも楽屋然としているその部屋で、マネージャーらしい若い男の人と、ベイビーと、しいちゃんの3人が私を取り囲んでいる形だった。

「気がついて良かった〜。ご気分はいかがですか?」

マネージャーさんではなく、ベイビー本人が私に尋ねてくる。
それを聞いて、驚いた。
想像していたのと全然違う。

声もしゃべり方もひどく優しくて、柔らかくて……
さっきのピアノと同じように、声に感情と色があった。

気分次第で演奏を切り上げるっていうし、さっきのステージでも無愛想な感じだったから、もっととんがってて話しかけにくい人かと思ってたのに……
あのピアノを聞いていたときみたいに、ドキドキした。

「何か持病をお持ちですか?」
ベイビーが私の目をのぞきこむようにして言う。

「いえ、特には……」
まさか初対面の男性相手に、「生理痛がひどくて」とは言えなくて、私は慌てて首を振った。
「ちょっと貧血気味で……よくあるんです。すみません、せっかくのライブのときにご迷惑をおかけしました。もう、大丈夫です」

「さっきより顔色はいいみたいですけど、無理しない方がいいですよ」
ベイビーが心配そうな表情で、ふいに私の手を取った。

ますますドキッとして、顔が熱くなるのがわかった。
だって、男の人に手を触られたことなんて、ないから。

「うん、さっきより指先が温かくなってきてますね。脈も落ち着いてる」

な、なに?

びっくりしてパッと手を離してしまってから、しまったと思った。
感じ悪かったかな。
でも、ベイビーは気にする様子もなく、安心したように眉を下げて、口許に笑みを浮かべている。

まるで、本当に私を心配してたみたいに。
まるで、いま本当に安堵しているみたいに。

私はよろよろと立ち上がって頭を下げた。
「本当にすみませんでした。お邪魔しました」
下腹部はまだ痛いけど、薬が効いてきて吐き気も収まっている。

「もう少し休んでいった方がいいよ、お姉さん。ねえ、ベイビー?」
優しそうなマネージャーさんが人懐っこい笑顔を浮かべて言った。
「何なら、僕が車で送りましょうか」
その言葉にベイビーが頷く。
「ああ、ケンちゃん、そうしてあげて。僕は今日、電車で帰るよ」

「いえ、とんでもない! 本当に大丈夫です!!」
慌ててブンブンと首を振った。

一瞬でファンになってしまったベイビーとこうやって話せたことが、嬉しくないわけない。
思いがけなく優しそうな人柄に触れて、感激でますます好きになってしまいそう。
でも、だからこそいっそう、とんだ醜態を見せてしまったことが恥ずかしかった。
これ以上は絶対、迷惑かけられない。

私はそそくさと荷物をまとめて、しいちゃんに目で合図した。
「お忙しいところ、本当にすみませんでした。あの、ピアノ、すばらしかったです!」

逃げるように急いでドアに向かう私たちを見て、ベイビーが立ち上がる。
その動きは、ステージの上の振舞いとは違って、ゆっくりと優しかった。
「本当に無理してない? なら、せめて通用門まで送ります。あ……、ケンちゃんはここで待ってて」
そう言ってベイビーは、一人先に立って、楽屋のドアを私たちのために片手で支えてくれた。
恐縮しながらその脇をすり抜けるとき、かすかに化粧品と、消毒薬みたいな香りがした。

出口に向かい、照明の落ちた廊下を歩いていると、
次第にベイビーが歩く速度を落として私と肩を並べた。
足音が響くほどの静けさの中で、
ベイビーは小声でつぶやくように言った。

「いつもそんなにひどいんですか、生理痛」

「……え?」
「倒れるほどひどいなら、早めに婦人科を受診してください。内膜症か、腺筋症かも……。定期検診は受けてますか?」

「………?!」
思いもよらぬ言葉に、思わず立ち止まる。
な、な、なんで……生理痛って……私、そんなこと、言ってないのに。

言葉を失って青ざめる私に、ベイビーは眉を下げて、困ったように笑った。
「ああ、すみません、立ち入りすぎましたよね。……でも心配だから、本当にできるだけ早く診てもらってください。それと、月経中はお酒を飲むと血行が良くなって出血量が増えるから、ほどほどにね」

「………!」

一瞬、からかわれているのかと思った。
でも、ベイビーの声はあくまで優しくて、その目は真剣で、ふざけている空気は微塵もなかった。
子どもを諭すようなゆっくりとした口調で、ベイビーは続ける。
「婦人科って、未婚の方は抵抗あるかもしれませんけど、市販の鎮痛剤を乱用するより、もっと良いお薬があるし……それに放っておくと将来の妊娠出産に障りが出ることもあるんですよ」

まるでお医者さんに話をされているみたい。
「妊娠……?」
私はただ唖然と、伏し目がちに話すその人の顔を見ていた。
「出産……?」

ベイビーは頷いた。
「差し出がましいようですが、僕のピアノを聞きにきてくれた大事なお客さんへ、僕からひとつだけアドバイスをさせてください」
「アドバイス…………?」
「あなたはまだ若くて、妊娠とか出産なんて遠い未来の話かもしれないけど……、いつか、好きな人の子供を産みたいと思う日が来るかもしれません。そのときに後悔しないように、今のうちから自分を大事にしてくださいね」

「…………」

なんでわかったんだろう。
なんで会ったばかりの男の人にこんなことを言われてるんだろう。
夢を見てるみたいに現実感がなかった。
でも………

「あなたに幸せな出産をしてほしいって思ってますよ。だってボクは『ベイビー』だからね」

ニコッと、目の前の男の人が笑った。

「!」
また、ドキッとした。
この人は、たぶん私より年上の人だけど、その笑顔は可愛いと言ってもいいほどに曇りがなくて……

ピアノを聞いていたときと同じように、その空気に知らず知らず引き込まれて、
私は頭の中が疑問でいっぱいのことも忘れて、無意識に頷いていた。
「はい……わかり、ました……」

微笑みながら頷いたベイビーは、またゆっくりと先に立って歩き出した。
そっと盗み見るように、その顔をもう一度見る。
睫毛が長くて、メイクのせいもあって中性的にも見える。
こういう話をされても全然嫌悪感がないのは、そのせいかな。

出口までくると、ベイビーはまた、私たちが通るまでずっとドアを支えてくれてから、
「今日は来てくれてありがとう。帰り道も気を付けて。くれぐれもお大事にね」
と、手を振った。

名残惜しく思いながら、私は頭を下げた。
「こちらこそ、ご迷惑おかけしました」
少し迷ってから、思いきって付け足す。
「あの、でも演奏を聴いているときは、辛いのも忘れていられました。それに、あの、さっきのアドバイスも……」

ステージの向こう側にいるはずの雲の上の人と、たまたま向かい合えた。
それは奇跡のような時間。
この人とこうやって話せることはもう2度とないんだから、言いたいことは全部、言っておきたかった。
「私……受診、してみようと思います」

少しだけ驚いたように目を見開いたベイビーに、私は頷いた。

「体調が悪かったけど、今日、ここに来てやっぱり良かったです。お会いできて、お話できて、良かったです。ありがとうございました!」

「……こちらこそ……ありがとう」
ベイビーは少し目を細めてから、くすぐったそうに、にっこりと微笑んだ。


駅に向かって歩き出しながら、しいちゃんが言った。
「大変だったけど、ベイビーと話できたなんて、嘘みたいだね」
「うん……」
私も、まだ足元がふわふわしてる。
「しかも思ってたのと全然違ったね。めっちゃいい人じゃん。ドタキャンとか言うから怖くてワガママな人かと思ってたけど」
「うん……すごく優しかったね」
ボリュームはあるのに、どこか囁くようなあの柔らかい声が、まだ耳に残っている。
ああ、CD買うの忘れちゃった……と、ふと思った。

「それにしても、なんで生理痛ってわかったのかな? お医者さんみたいだったね」
しいちゃんの声に、私はそっと自分の下腹部に手をやった。

婦人科か……。
実は行った方がいいのかもってどこかで思いつつ、気が乗らなくてずっと先送りしてしまっていた。
だって、あの内診台っていうのに乗るのがすごく嫌だし、恥ずかしい。
病気が見つかるのも怖いし、実際診察で何されるのかもよくわからないし……。
赤ちゃんができたわけでもないのに、産婦人科に行ったら浮かないかな。
行きたくない理由を数えあげたらきりがない。

でも、

「いつか、好きな人の子供を産みたいと思う日が来るかもしれません」
「幸せな出産をしてほしいって思ってますよ。だってボクは『ベイビー』だからね」

ベイビーの、あの言葉が胸から離れなかった。

頭の中に、さっき聴いた曲が甦ってきた。

『baby, god bless you』
確かそんなタイトルだった。
今日聞いた中で一番気に入った曲。
産まれてきて、おめでとう。
この世に産まれてくるすべての命に、祝福がありますように。

いまは相手すらいない私にも、いつか来るんだろうか。
好きな人の子供を産みたいと思う、そんな日が。

もしもそうなら、
嫌だけど、怖いけど、恥ずかしいけど……
その日のために、自分の体を少し大切にしてみようかな。

男性の先生はどうしても嫌だから、せめて優しい女医さんのいるところを探そう。
いい薬があるかもしれないって言ってたし、この月に一度の痛みから解放されるなら、きっと、悪いことばかりでもないかもしれない。

あの人が背中を押してくれたんだって思えば、
今日の出会いもただの偶然じゃなくて、意味のあるものになる。

ベイビー。
謎の多い、不思議な人。
だけど優しい、素敵な人。

あなたとの奇跡みたいな出会いに感謝して……、
今は小さな一歩を踏み出してみよう。

人工的な明かりで星が見えない都会の空を見上げて、私はそう思った。
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