Dreams - Long
□プロローグ
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「スミレ〜、こっちこっち!」
建物の入口で大きく手を振る友達の姿を見つけて、私はほっとして駆け寄った。
「しいちゃん!ごめんね、待たせて」
「まだ時間あるから大丈夫だよ。迷った?」
「うん、改札があんなにあると思わなくて……」
3年半も住んでいるのに、私は東京の空気に未だに慣れないでいた。
都心も都心の、こんなお洒落な街には滅多に来ないし、
ましてやジャズバーなんて、場違いにもほどがある。
「緊張するな……」
まずは無事にたどり着いたことに安堵しながら、地下へ続く薄暗い階段をゆっくりと降りた。
重いドアを引くと、中は想像していたのとは少し違った。
クラシックコンサートみたいに整然と椅子が並んでいるホールか、ロックバンドのライブみたいにアンダーグラウンドな感じの、どちらかだと思ってたけど……
「なんか、レストランみたいだね」
片隅に小綺麗なバーが設置されて、まばらに配置された丸テーブルでは、すでに席についたお客さんが食べながら談笑している。
「うん。時間になったらベイビーが出てきてピアノを弾くから、それまで食べたり飲んだりしてればいいの。あ、ここだ」
チケット番号を見ていたしいちゃんが、テーブルのひとつを指差した。
「思ってたより全然カジュアルなんだね」
生まれてはじめてのライブに気後れしていたけれど、少しだけ肩の力が抜けた。
「そうだよ、全然気負うことないでしょ」
「しいちゃん、よく来るの?」
「ううん、まだ3回目。チケット高いし、人気の日は取れなくてさ」
しいちゃんに連れてきてもらったのは、ベイビーというジャズピアニストのライブだった。
音楽に関心のない私は、その名前を全く知らなかったけれど、その世界ではすごく人気の人で、そのチケットがいかに貴重なものかを力説されて、つい、頷いてしまった。
昨日から体調が悪くなって、ギリギリまでキャンセルしようか迷ったけど……
バーでワンドリンクを引き換えながら、ちらっと、お手洗いの案内マークを確認する。
ただ座って聞いてればいいだけだし、この感じなら演奏中にトイレに行っても大丈夫そう。
良かった、何とかなるかも。
「今日は演奏、何分続くかなぁ」
カクテルに口をつけて、しいちゃんが言った。
「安くないチケットで、10分で終わられたらたまんないよね」
「うん、そうだね」
しいちゃんの話では、ベイビーは正体不明、年齢も経歴も不詳の覆面ピアニストだという。
分かっているのは児童養護施設で育ったということだけ。
ライブは二時間ぶっ続けで弾きつづけることもあれば
開始わずか10分で終わらせてしまうことや、開演直前にドタキャンすることもあるんだとか。
「芸術家って、気分屋の人が多そうだもんね」
数年前からファンだというしいちゃんすらも、心配そうに眉をひそめた。
いくら気分屋って言っても、そんなのでよくプロが務まるなあ……
スタッフさんもやりにくくないのかな……
そんなことを思いながら卓上のピザに手を伸ばしたとき、開演のアナウンスが聞こえてきた。
慌ててスマートフォンをマナーモードにする。
時刻は20時ちょうどだった。
ふっと照明が落ちて、前方のステージだけが逆に明るくなった。
浮かび上がるグランドピアノ。
そして、袖からスーツ姿の、長い銀髪の人物が静かにそこに現れた。
「少なくともドタキャンはなかったねえ」
しいちゃんが安心したようにささやく。
「……あれが、ベイビー……」
その人は、ゆっくりピアノの前に歩いてきて、一礼してからスツールに腰を下ろした。
決して優雅な身のこなしではなかった。
むしろ乱暴と言えるほどにぞんざいで……
でも、何故か惹き付けられる。
染めているのか、ウィッグなのか、肩まで垂らした銀の髪が、ステージの照明に煌めいた。
正体不明と言っても、紛れもなく男の人だ。
長身で……年齢はたぶん30代くらい、かな。
ベイビーが、客席からでもわかる長い指を鍵盤に乗せた。
勢いで来てはみたものの、この人の曲だって一曲も知らないのに楽しめるのかな。
そんな心配は、最初の1音で吹き飛ばされた。
ベイビーの指が鍵盤に落ちたとたんに、指先からキラキラと光がこぼれて、あたりを輝かせるような音が空間を満たした。
「わ……、すごい」
私は圧倒されて、食べようとしたピザをまたお皿に戻した。
ときに繊細に、ときに力強く、ベイビーはその指先で、その場にいる全員を魅了した。
「brightnessって曲だよ」
しいちゃんが教えてくれた。
こんなピアノ、初めて。
音に色と光と、手触りがある。
その曲名の通りに、とても眩しいプリズムの中に立っているような錯覚。
まばゆい光の渦に飲まれて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
巻き込まれる。持っていかれる。
これが………ベイビー。
ドキドキした。
その日は運が良かったみたいで、ベイビーは1時間が過ぎても立ち上がらずに、ピアノを弾き続けた。
ときに泣きたくなるくらい切なく、ときにピアノが壊れそうなくらいに激しく。
すごい。この人、ほんとにすごい。
わあ、上手だなって感心するんじゃなくて、内臓に手を突っ込まれて揺さぶられるみたいな、そんな演奏。
私はテーブルの上の料理が冷めていくのも忘れて、聞き入ってしまった。
「そろそろ終盤かな」
しいちゃんがそう言ってグラスを空にした頃、
シクシクと下腹部の痛みが強くなって、冷や汗が出始めた。
………来た。
「……痛……」
そっとお腹を押さえる。
せっかく、いいところだったのに。
一度意識してしまうと、もうその痛みを忘れることはできない。曲に集中できない上に吐き気までする。
そろそろ薬が切れるかもとは思ってたんだけど……予想より早かったな。
あと少しで演奏が終わるのに……。
音を立てないように気を付けながら、ポーチから痛み止めを出して飲んだ。
実は2時間前にも飲んでいて、次の服用は4時間空けてくださいと書かれているから、本当はダメなんだけど……、
飲まないと耐えられそうもない。
「ごめんね、ちょっとトイレ」
ポーチを抱えて、そっと席を立った。
腰をかがめながら、よろよろとトイレに駆け込む。
用を足すと、便器の中が血に染まった。
ずっしりと重いナプキンを汚物入れに入れながら、ため息をついた。
3日目だけど、今日はいつにもまして出血が多い。夜間用の大きなナプキンを使っても1時間もたない。
お腹の中によくこれだけ入っていたなと思うくらい大量の出血。
鎮痛剤を飲んでも眠れずにうなされるほどの、下腹部全体を覆い尽くす痛み。
数年前から生理のたびにこうだった。
出先で洋服を汚してしまうことまであって、最近は生理中の外出は控えていたんだけど……
さっきのベイビーの演奏を思う。
それでも、今日は来て良かった。
この痛みと引き換えにしても、十分価値があった。
吐き気をこらえながら手を洗っていると、客席の方から盛大な拍手の音が聞こえた。
演奏が終わったみたい。
ああ、ラスト聞きそびれて残念だったなあ……
せめてCDは絶対買って帰ろう。
微かに思いながら手を拭いたとき、急にぐらりと視界がゆがんだ。
めまい。
ふらついて、立っていられない。
なに、これ。
こんなの初めて。
指先がしびれて、頭の中がぐるぐる回って、吐き気が強くなって、冷や汗がまたぶわっと出てきて……
そして、
…………目の前が真っ暗になった。