Dreams - Long

□第二話
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「スミレちゃん!さっきサクラちゃんから電話があって、診察のこと聞いたわよ?」
初めての婦人科受診から三日後、紅葉さんの店に行くと、開口一番そう言われた。
「あなた女医さんが良かったんですってね、ごめんなさいね!」

大学の近くのこのお店は、昼はカフェ、夜はバーになる。
落ち着いた雰囲気で、ゆっくり勉強できるのが便利だし、マスターの紅葉さんは少しおせっかいだけど優しい人で、私みたいな一人暮らしの学生にとっては、東京のお母さん的存在だった。

先週、ベイビーのライブで倒れてしまった後、婦人科にかかりたいけど気が進まないことを何気なく相談したら、自分のお産のときに世話になった「サクラちゃん」という先生を紹介してくれた。
30代後半で、とにかく優しいということだったし、「サクラちゃん」というからすっかり女医さんだと思い込んで、理想的な条件だって安心して受診した。

ところが……とんでもない結末。
今でも思い出すと顔から火が出る思いがする。

確かに優しい先生には違いなかったけど……
まさかまさか、あんな、若い男の先生だったなんて。

はじめに性別を確認しなかった私がもちろん悪かった。でも「サクラ」なんて名前の男の人がいるとは思わなかったから……

「こちらこそ、ご無理言って時間取って頂いたのに、鴻鳥先生にも紅葉さんにも失礼なことしてしまって……」
私は赤面しながら頭を下げた。
「今日はそのことで紅葉さんに謝ろうと思って来たんです。これ、ほんのお詫びの気持ちです」
焼いてきたケーキを差し出すと、
「やだ、気にしなくていいのに。でも、ありがたく頂戴します」
紅葉さんが嬉しそうに手を出した。

「あの、鴻鳥先生、怒ってらっしゃらなかったですか?」
一番気になっていたことを聞くと、紅葉さんは笑いながら首を振った。
「全然。サクラちゃんが怒るとこなんて見たことないし。むしろ感動してたわよ。『あんなピュアな女の子が今もいるんですねー、心が洗われる思いです』って」
「そ、そうですか……」

ピュアというか、単にまったくモテなくて、こんな年齢まで恋人もいたことなくて、異性に臆病なだけだから恥ずかしい。
怒るところを見たことないっていうのも納得できるような、本当に絵に描いたような優しい先生だったけど……その先生でもダメって、自分がつくづく情けない。
もともと男の人と話すのも苦手なのに、婦人科の診察なんて、人柄がどんなに良くても耐えられなかった。
「本当にすみませんでした。あの、鴻鳥先生にもくれぐれもお詫びをお伝えください」

「直接言えば? 今日これから来るみたいよ、サクラちゃん」
カウンターの中でお皿を拭きながら、紅葉さんがあっけらかんと言った。
「えっ!」
「電話のときそんなこと言ってたから。サクラちゃんと会うの、私も久しぶりだわ〜。あなたしばらく勉強してくんでしょ?」

これから、鴻鳥先生が、ここに来る?

「えっと……じゃあ……」

お詫びはもちろん言いたいけれど、あんなことがあった後で顔を合わせるのは、気まずいというか、緊張するというか、そもそもどの面下げてというか……何を話したらいいかわからない。

「私、やっぱり今日は帰ります。鴻鳥先生にくれぐれも、よろしく……」

不自然な愛想笑いを浮かべ、下ろしかけたバッグを再び背負ってそそくさと退出しようとしたとき、背後でカランとお店のドアが開く音がした。

「あ、噂をすれば! サクラちゃん、いらっしゃーい。この前はありがとうね」

背中がびくっと緊張する。
うそ、本当に来ちゃった!? 
ど、ど、ど、どうしよう。とりあえずお詫びを言うだけ言って、それから、逃げる?

「いえいえ、結局お役に立てませんでしたからね〜……って、あれ? 岡崎さん?」
笑顔で紅葉さんに挨拶をしていた鴻鳥先生が、片隅に立つ私に目を止めて声を上げた。
「そうか、ここの常連さんって言ってましたよね。これまでもすれ違ってたかもしれないですね。改めてよろしく」
「鴻鳥先生……!」

シャツの上に黒のトレンチコートを羽織った鴻鳥先生は、白衣姿とは随分印象が違うけど、あたたかい雰囲気と声は、この前と同じだ。
笑顔を向けられて、ドキッとした。

診察室でも感じたことだけれど、なんだか初めて会った気がしない。
誰かに似ているような、どこかで会ったことのある気がずっとしている。

「先生、先日は、どうもすみませんでした!」
勢いよく頭を下げると、
「アハハ、もういいですよ。そんなに何度も謝らないで」
と、鴻鳥先生が手を左右に振る。

「あたしが説明不足だったみたいで、二人ともに悪いことしちゃったわねえ」
「紅葉さんのせいじゃないです! 私のわがままで……甘ったれたこと言って、すみません」

女医さんを希望すること自体が、男性の鴻鳥先生には失礼な話だってわかってる。
それなのに、わざわざ予約してくれてるものを、目の前で拒否するなんて……きっと内心、呆れ返っているはず。

「いや……僕は『わがまま』ではないと思うよ」
鴻鳥先生がトレンチコートを脱いでカウンターに腰を下ろしながら言った。
長身のせいか華奢に見えるけど、シャツ姿になると、意外に骨格がしっかりしてるのがわかる。
「デリケートな科だからね。同性を希望される患者さんが多いのは当たり前で、不安にさせてしまうのは、僕ら男性医師の力不足なんだ」

どこまでも優しい先生の言葉に、ますます申し訳なくなって、思わず言ってしまった。
「そんなことないです、私が男性に免疫がなくて、恥ずかしかっただけで、他の科だったら絶対、鴻鳥先生みたいな優しい先生に診ていただきたいです!」

「……じゃあボク、歯医者に転向しようかなあ?」
鴻鳥先生がいたずらっぽく笑う。

「あ、歯医者はちょっと嫌かも……口の中を見られるのって結構恥ずかしくて……」
「うーん、じゃ、耳鼻科はどう?」
「あ、耳鼻科もちょっと嫌かも。耳とか鼻の中ですもんね」
「……アハッ!面白いねえ岡崎さん」
鴻鳥先生は屈託なく笑うと、隣のスツールを指差した。
「もう帰っちゃうの? 良かったらここ、座りません?」

また、ドキッとした。
ここにいてもいいよ、邪魔じゃないよって言われたみたいで。

診察されるのが恥ずかしいのは、鴻鳥先生が若くて素敵な人だからだ。
たとえばおじいちゃんの先生だったら、きっとここまで恥ずかしくない。
診察のことさえ考えなければ、鴻鳥先生には、男の人に免疫のない私でも安心して話ができるようなところがあって、隣に座っていいよって言われたことは、何だか嬉しかった。
診察のことも、そんなに気にしてなさそうでホッとして、
私は遠慮がちに、隣のスツールに腰を下ろした。

「あの、内科だったら……大丈夫かもしれません」
「でも内科は、下着を取ってもらって、胸元に聴診器あてるよ〜」
「うっ、じゃあ無理です……あ、先生優しいから小児科、とか」
「岡崎さん、絶対ボクの患者になる気ないでしょう!」
またアハハハと笑うと、眉も目尻も下がって、困ったような顔になる。その笑顔が眩しかった。

「でも僕も、泌尿器科の先生が若い女性だったら嫌だからね」
「そう、ですよね」
「僕は診療拒否まではしないけど、さすがに」
「ご、ごめんなさい……」
「アハッ、冗談冗談!」

明るく笑ってから、鴻鳥先生はふと、優しい目でこちらをまっすぐに見た。
「勇気を出して受診してくれただけで充分です。ハードル高かったの、わかるよ。頑張ったね」

「…………!」

あんなに失礼なことをしたのに、こんなに温かく、優しいことを言ってくれる。
鴻鳥先生って、一体、どういう人なんだろう。
そう思いながら、私は頷いた。

「たまたまお会いした、ある人に強く勧めてもらったんです。その人、初対面なのにすごく真剣に心配してくれて、将来後悔しないように自分を大切にするんだよって言ってくれたんです」
「…………」
「私、体のこと、気にはなってたけど、怖くて踏み出せなくて……その人に背中を押してもらったおかげで決心がつきました。またお会いできたら、お礼が言いたいです……雲の上の人だから、難しいでしょうけど」

「………そっか」
鴻鳥先生は、小さく笑って、口許に長い指を当てた。
「けど、きっと相手に届くと思うよ、岡崎さんのその気持ち」

あ。

ずっと誰かに似てると思いながら思い出せなかった記憶が、その瞬間に、キンと繋がった。

この声。この目。笑い方。
鴻鳥先生は、ベイビーに似てるんだ。
もちろんベイビーであるはずもないけれど、優しい声としゃべり方、それから笑うと下がる眉毛がよく似てる。

なんだかベイビーに言われているように錯覚してしまって、余計にドキドキした。

「サクラちゃんは今日、オンコール?」
「ええ、残念ながらコーヒーお願いします。岡崎さんは?」
注文を済ませると、鴻鳥先生は私に言った。

「次の診察、下屋に引き継いでおきました。僕の後輩で、優しい女医です。でも、検査は僕の方が上手だから痛くないと思いますけど」
「し、下屋先生で大丈夫です」
「アハハハ!」

コーヒーと一緒に、私が焼いてきたケーキが鴻鳥先生の前に差し出された。
「これ、スミレちゃんが焼いてきてくれたの。良かったらどうぞ」
「え、手作りなの? 僕までいいんですか?」
鴻鳥先生が紅葉さんと私を見比べる。
「え、いや、あの……すみません、こんな、お口に合うかどうか……!」
私は慌てて手を振った。
まさか鴻鳥先生まで食べると思っていなかったから、焦って冷や汗が出てしまう。

「鴻鳥先生には、改めて御礼とお詫びをしようと思ってはいたんですが、今日お会いすると思っていなかったので、手ぶらでごめんなさい! 今度、ちゃんと買ったものを病院にお持ちしますから!」

恐縮する私の言葉に、鴻鳥先生は笑って手を振った。
「いいよいいよ、そんなの本当に気を遣わないで。病院の方針で、患者さんからお礼とかもらっちゃいけないんだ。でも、これなら一緒にご馳走になれるから、こっちの方がかえって嬉しいよ」

本当に、タイミング悪すぎる。
鴻鳥先生の好みも全然わからないのに、まさかいきなり手作りケーキを食べてもらう羽目になるなんて。
知らない人の手作りなんて気持ち悪くないかなあ。
心配をよそに、鴻鳥先生はフォークを取って、「いただきます」と微笑むと、何の躊躇いもなくケーキを口に入れた。
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