Dreams - Long

□第五話
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「いたたた…」
朝起きると、左の足首が痛かった。見ると少し腫れている。
靴下を履きながら私は顔をしかめた。

心当たりは、ある。

昨日の夜、またベイビーのライブに行った。
自分でチケットを取ったのも、一人でライブに行くのも初めてだったから不安もあったけれど、どうしてもベイビーに伝えたいことがあって、しいちゃんにも相談せずに出掛けた。

あれから何度もCDでベイビーの曲を聞いて、ベイビーを好きになればなるほど、初めて出会ったあの夜のことが嘘みたいに思える。
でも、私が治療を始めて、今元気に過ごしているのは、全てあの夜のおかげだ。

そのことを伝えたくて書いた手紙を、渡そうかやめようか、ギリギリまで散々迷った。
こんな手紙、迷惑なだけかもしれない。ベイビーはもう忘れているかもしれない。
それでも、見ず知らずの私に本気でアドバイスしてくれた優しい人に、報告とお礼だけはしなくちゃって思ったから、
意を決して、見覚えのあったマネージャーさんを呼び止めた。

「あ、キミ、この前の! 具合はもういいの?」
人懐っこそうなマネージャーさんは、面倒がる素振りもなく手紙を受け取って、
「たぶん大丈夫だから楽屋に寄っていきますか?」
と笑いかけてくれたけど、
なんだか急に恥ずかしくなってしまって、逃げるように会場を出た。
我ながら大胆すぎる行動に今更ながら後悔が襲ってきて、地下鉄ホームまでやけに階段の多いその駅で、階段を二段、踏み外した。

「今日、検診なのに……」
朝になれば良くなるって楽観視して寝たのに、むしろ悪化してしまった。
歩けないほどではないけれど、特に段差は辛かった。

帰りに湿布、買うべきかなあ。
試験前でバイトも休んでいたところに、薬代、ベイビーのチケット代と予定外の出費が重なったものだから、お財布が心もとない。できれば買わずに済ませたいけど……
足首に負担をかけないよう、ゆっくり歩きながら産婦人科外来を目指した。

鴻鳥先生に紹介してもらった下屋先生は、若くて可愛くて優しい先生だった。
初めての診察のとき、緊張する私に、
「そりゃ初めての婦人科検診なら鴻鳥先生はやめた方がいいですよ。腕はいいけど、女心はちょっと、いや全然、わからないから!」
と明るく笑いながら、リラックスさせてくれた。

ただ、やっぱり女医さん希望の妊婦さんは多いみたいで、鴻鳥先生の外来の日より混んでいるのが玉に瑕だった。
今日も、待合室にぎっしり溢れた妊婦さんたちを見て、私は肩身の狭い思いで壁際にそっと立った。

「ねえ、鴻鳥先生ってわかる? 月曜の外来の」
雑誌を立ち読みしていたら、そんな声が耳に入ってきて、ドキッとした。
隣の長椅子に座った二人連れの妊婦さんたちの声だ。
思わずこっそり、聞き耳を立ててしまう。

「ああ、優しい方の男の先生でしょ? 時間外に診てもらったことあるよ」
「上の子のママ友が鴻鳥先生の担当で、すごく良かったから次も絶対鴻鳥先生にするって言ってて」
「わかる。私、破水かと思って慌てて行ったら尿漏れで超恥ずかしい思いしてさ。でも、『医者でも間違えやすいんです。気になることがあったらいつでも来てください』ってニコニコしてて、救われたわ〜」
「そーそー。下屋先生もいい先生なんだけど、混むからさ〜。私も移ろうかなって思ってるの。ちょっとかっこいいしさ」
「あー、そうかもねー」

雑誌で顔を隠しながら、私はふーっと小さく息を漏らした。
妊婦さんはすごいなあ。
「ちょっとかっこいい」先生に診察されても平気なんだ。

それにしても、鴻鳥先生、前に「誰からも相手にされない」みたいなこと言ってたけど……やっぱり、人気のある先生なんだ。
本当に、あれだけ優しかったら当たり前だよね。

妊婦さんの気持ちに寄り添って、いざというときには時間外でも駆けつけてくれる。
そんな素敵な先生が、人気がないわけない。
その鴻鳥先生の診察を蹴るなんて、妊婦さんから見ても、私は大馬鹿者に違いなかった。

やがて私の名前が呼ばれて、診察室に入ると、
「副作用はどうですか?」
下屋先生が今日も優しく迎えてくれた。

「最初は吐き気がひどくて、でも今は落ち着きました」
「良かった! このまま飲み続けられそうですか?」
「はい、大丈夫です」
私の言葉に、下屋先生は頷いて言った。
「2ヶ月ごとにエコーと血液検査をしながら様子を見ていきます。エコーは嚢腫のサイズを見ていくため。血液検査では、嚢腫がガン化しないか確認する数値と、血栓症になっていないかをチェックする値、この二つを慎重に見ていきますね」
「はい……」

命に関わらない病気だって鴻鳥先生は言ってたけど……
「ガン」とか「血栓症」とか、深刻そうな単語に少しドキリとしながら、頷いた。

診察後に、会計書類と処方せんを受け取る。
診察は3割負担だけれど、ピルは2ヶ月分で約5千円。
やっぱり湿布は買う余裕ないなあ、と思いながら、痛む足を気にして出口に向かって歩き出した。

ゆっくり歩くのは足が痛いせいだけじゃなかった。
視線はきょろきょろと、辺りを探してしまう。

下屋先生の最初の診察のあと、鴻鳥先生が通してくれたカウンセリングルームの前を通過した。
あのとき、鴻鳥先生、私のことを気にして待っててくれて……嬉しかったな。
治療方針も確定したんだし、私と鴻鳥先生が会う理由はもうない。
でも……、同じ建物の中にいるんだから、ばったり会ったりしないかな。
遠くから、ほんのちょっと見かけるだけでもいいんだけれど……

「岡崎さん」

落ちつかなげに歩く私の進行方向から、声がかかった。

驚いて顔を上げると、鴻鳥先生がエントランスの近くにある売店から、白衣のまま、ビニール袋を下げて出てくるところだった。

「こ、鴻鳥先生!」

急に鼓動が早くなった。

やった、会えてしまった。
幸運に内心ガッツポーズしたいくらいだった。
久々に会った鴻鳥先生は、いつもと同じ優しい声で、挨拶もそこそこに言った。
「足、どうかした?」

「あ……昨日から、ちょっとだけ痛くて……」
鴻鳥先生が指差す左の足首を咄嗟に右足の後ろに隠す。
あからさまに引きずって歩かないようには気をつけていたはずだけど……これみよがしだったなら恥ずかしい。
「でも、大したことないんです」

「少し時間あるかな? なら、ちょっとおいでよ」
鴻鳥先生は手招きすると、私に合わせたゆっくりとした歩調で、病棟の方へ歩き出した。
「何か無理しちゃった?」
「いえ……。昨日の夜、少し慌てて階段を降りただけなんですけど、日頃が運動不足なので……お恥ずかしいです」

「昨日の夜か……」
鴻鳥先生が自分の唇をなぞるような仕草をしながら、つぶやいた。

この前と同じカウンセリングルームのドアを開けて照明をつけると、
「ちょっとここで待っててくれる?」
と言い残して、鴻鳥先生が部屋を出て行った。
やがて、5分もしないうちに戻ってきた先生は、落ち着かない気持ちで待っていた私の目の前に、大きな救急箱をどんと置いた。
「足、見せて」

「えっ」
思わず身を引いてしまう。

この救急箱、もしかして、いま、取ってきてくれた?

「いっ……いいです! 大丈夫です!」
ぶんぶんと手を振る私に、鴻鳥先生は諭すような口調で言った。
「よくないよ。何もしないで、無理して歩くと長引くからね」
「でも、本当に何でもないので……!」

恥ずかしいし、産婦人科の先生にそこまでしてもらう理由がない。鴻鳥先生には、会うたびに迷惑をかけている気がする。
懸命に遠慮していると、鴻鳥先生は優しく笑って言った。
「女医希望なのは重々承知だけど、別に内診台に乗せたりしないから、どうにか僕で勘弁してもらえないかな?」
「いえ、そんな、そうじゃなくて……」
「僕は専門的に診れるわけじゃないし、できることは限られてるけど、何もしないよりはいいと思うよ。ほら、足」
握手を求めるように差し出される手から、私はさらに身を引いた。
「じゃあ、あの、自分で、自分でやりますから!」
「一応、医療行為だからね。患者さんにはお貸しできないんです」
鴻鳥先生は申し訳なさそうな顔をしてから、
「もし、僕には指一本触れられたくないって言うなら、諦めて整形の女医のとこに担ぎ込むけど」
と、付け加えた。

「…………!」

本気なのか、冗談なのかわからないけど、そんなことを言われてしまったら、もう断れない。

私は仕方なくモカシンから足を出した。
お腹を触られたことに比べたら、足くらい平気だ。
ううん、でも、やっぱり恥ずかしいことは恥ずかしい。

「無理強いしたみたいで、ごめんね」
躊躇う私の様子を見て、鴻鳥先生が苦笑した。
「いえ……こちらこそ、またご迷惑かけて、すみません」
「いや、全然。それに整形外科ならギリギリ僕が主治医でもOKってことだよね。ようやく転科先が見つかってホッとしたな」
アハハッと、今度こそ明らかに冗談とわかる笑い方をして、鴻鳥先生は私の足にそっと触れた。

「靴下も脱いでもらっていい?」
「えっ?!」
「僕が脱がせてもいいんだけど……」
「じ、自分で脱ぎます……っ!」

羞恥を堪えて左だけ素足になった私の足を、鴻鳥先生はそっと椅子の上に乗せて、
「じゃあ、ちょっと冷やすね」
と、保冷剤のようなものを足首に当てた。

ぴくっと足が震える。
それは、急に冷やされたからだけじゃなくて……、
鴻鳥先生に触られたから。
ドキドキして、冷やされている部分以外は、全身が逆に火照っていくみたいだった。

「このあと、何時まで大丈夫?」
「授業は14時からなので……まだ大丈夫です。先生こそ、お時間は……?」
「今は休憩中だから大丈夫。何かあれば呼び出しあるし。じゃあ、10分くらい当てておこうか」
私の足に触れたまま、鴻鳥先生は顔だけをこちらに向けて微笑んだ。
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