Dreams - Long

□第八話
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「今日はどうもありがとうございました」
ケンちゃんに案内されて、緊張の面持ちで楽屋に入ってきた岡崎さんは、そう言って深々と頭を下げた。
数秒後に顔を上げた彼女の目元は、思った通り、少し赤く腫れていた。

演奏中、ステージからそっと様子を伺って、僕は驚いた。
まっすぐ前を向いたまま、こぼれる涙をぬぐおうともせずに、岡崎さんは静かに泣いていた。

間接照明を反射して、その涙はキラキラしたナイフになって僕に届いて、
僕の心のど真ん中を深くえぐった。

僕は今日、彼女にただ楽しんで欲しかった。
鴻鳥サクラにはできないことを、ベイビーとして、してあげたかった。
「手紙のお礼」を大義名分に、特別扱いして、甘やかしたい。
最高の席と最高の演奏をプレゼントして、最高に笑顔になって欲しいって、そういうつもりだった。
彼女はベイビーのファンだし、試験にも合格した絶好のタイミング。絶対に喜んでくれるはずって、僕は信じて疑わなかったんだ。

なのに………、

どうして君はそんなに泣いてるの?

涙の理由を聞きたいのをぐっと堪えて、僕はぎこちない笑顔で、彼女に椅子を勧めた。
「こちらこそ、手紙、ありがとう。体のこと、本当に良かったですね」
「おかげさまで、すごく良くなりまして………」

今日の岡崎さんはすごく上品なワンピースを着ていて、いつにもまして綺麗だった。
その分、無理に作ったような笑顔が痛々しくて見ていられない。

抱き締めたい、と思った。
今にも壊れてしまいそうに笑う彼女を、きつく抱き締めて、髪を撫でて、大丈夫だよって言ってあげたかった。

この気持ちは、母性への憧憬なんかじゃない。
今、はっきりわかった。
これは、恋情だ。
彼女を欲しがっているのは、僕の中の子供じゃなくて、「男」の部分に違いなかった。

「手紙、出し逃げみたいになってしまってすみません」
「いいえ、それは全然。僕こそ、勝手に個人情報を調べてすみません」
彼女の前に、僕はカクテルグラスを差し出した。
「酔わせて口説こうなんて思ってませんから……、もし嫌じゃなかったら、一杯だけどうですか?」

きっと緊張してしまう彼女をリラックスさせるためと、僕の正体に気づかれないように少し酔ってもらうくらいのつもりで用意したアルコールだったけど、辛いことがあるなら、お酒に頼るのも時には悪いことじゃない。

彼女が頷いたのを見て、僕も自分のグラスを準備しながら言った。
「この前の、手紙をくれた日の演奏……ひどかったでしょう。せっかく来てくれたのに、僕のコンディションが悪くてすみませんでした」

「そんなことないです、前回も、とても素敵でした」
岡崎さんは首を振ってから、
「ただ……」
と、目を伏せた。その瞳の中に、卓上のグラスの波紋が映っていた。

「今日の演奏は、震えるほどすごかったです。私の好きな曲、入れてくださったんですよね。あんまり揺さぶられて……、私、泣けちゃいました」

僕の見た限り、あれは「泣けちゃった」とかいうレベルの泣き方ではなかったけれど、そのことをどう言っていいのかわからなくて、僕は曖昧に頷いた。

それまで黙っていたケンちゃんが、隣に座って、僕のグラスにビールを注いでから、口を開いた。

「ベイビーの曲を聞いて涙ぐむ若い女性は、大抵、恋をしてるんですよ」

「…………!」
はじかれたように岡崎さんが顔を上げた。
僕も驚いて隣を見る。

ケンちゃんはいつも通りの明るくて軽い口調で、からかうように彼女を見た。
「………違う?」

「えっと、あの、何て言うか…………その」
岡崎さんは頬を染めて、また慌てたように下を向いてしまった。
明らかな肯定のサイン。予想外の反応だった。

「ほら、当たりでしょ。そうだと思った。彼氏ですか? うまくいってないの?」
ケンちゃんは、にこやかに笑顔を浮かべながら、さらに切り込んでいく。

僕は舌を巻いた。

そう、これはケンちゃんの持つ資質だ。
道化にも似た、軽くて無神経とも思える気楽さで、相手を構えさせずにいきなり懐に入り込む。
ベイビーみたいな怪しい奴が曲がりなりにもプロとして何とかやっていけるのは、ケンちゃんが僕の代わりに表に出ているからに他ならなかった。
しかも、このテンションを保つのにアルコールも必要としない。
僕にはとても真似のできない芸当だった。

チケットの払い戻しから今日のセッティングまで、実務を担当してくれたケンちゃんは、彼女とのこれまでを踏まえた上で「正体は隠しておきたい」という僕の要望を聞くと、顔をしかめた。
「なんでそんな面倒なことするんすか。俺が鴻鳥サクラだ、そんでもって好きだ!ってはっきり言えばいいじゃないですか」

「す、好きとは一言も言ってないよ」
たじたじと反論すると、ケンちゃんは両手の平を空に向けて、
「はあ〜? 好きでもない女の子のために、こんな手の込んだことを俺にさせたわけですか?」
と、呆れたように僕を見た。
「往生際が悪いですよ、サクラさん。例の、ベイビーの恋の相手って、その子なんでしょ?」

「だ、だから、あんな匿名掲示板の書き込みを根拠にするなって言ったじゃないか」
「言っときますけど、あんな書き込みより、俺の方が先に音の変化には気づいてましたよ。誰よりもベイビーのピアノを良く知ってるのは、俺ですからね!」

不満を垂れ流しながら、それでも僕の要望通りに動いてくれたケンちゃんは、
今、僕の視線を受け止めて、ニヤリと最高に小憎たらしい笑みを浮かべた。

「か、彼氏なんかじゃ、ないです」
岡崎さんは消え入りそうな声で言った。
「私が、一方的に片想いしてるだけです………」

「へぇ、そうなんだ。片想いかぁ〜」
ケンちゃんがにこっと岡崎さんに笑いかける。
「告白しないの? スミレちゃんは可愛いから、絶対いけるでしょ!」

僕は、ケンちゃんを咎めるのも忘れて、俯く岡崎さんを呆然と見ていた。
グサッと太い槍が心に刺さったみたいだ。

………片想いだって?

いや、何を今更傷ついてるんだ僕は。
そんなこと当たり前じゃないか。
この年齢の女の子が、恋をしていない方がおかしい。

ほら見ろ、杞憂だったじゃないか。
僕が好意を持とうが持つまいが、彼女は僕なんか端から眼中になかったんだ。
だったら、もう一度ケーキを作ってくれるって社交辞令くらいは、「ありがとう」って笑って受け入れても良かったのかもしれない。

けど……

僕はあのとき、逃げた。
自分が気持ちを秘めておく辛さから、ただ、逃げたんだ。

「泣くほど好きなら、好きだって言っちゃいなよ」
ケンちゃんが、岡崎さんのグラスにお酒を継ぎ足した。
それに口をつけながら、彼女は小さな小さなため息をついた。
「いえ……私、実は、もう失恋してるんです………その人、恋人がいるんですよ」

「………ッ!」
僕は軽く咳き込んで、グラスを置いた。
さすがのケンちゃんも、一瞬真顔になって、言葉に詰まる。

涙の理由が、わかった。
そうか、失恋………。そっか。

そういえば、この間ぶーやんで偶然会ったときにも、おめでたい席だというのに、全然元気がなかった。
僕は背中が気になって気になって仕方なくて、味なんて何もわからなかったんだ。

あの日、ぶーやんで彼女の向かいに座っていた、あの男子学生。
「30までお互い独身だったら結婚しよう」なんて、学生らしいままごとのような言葉に、僕は思ったよりショックを受けて、すっかり動揺した。
それを発したのが、チャラチャラした若者ではなく、彼女と同じ志を持ち、比較的彼女と似た空気を持つ男だったから、その約束は、僕にはやけに現実味を帯びて聞こえた。

彼女が家庭を持つことを誰よりも願っていると思っていた自分の決意が、いかに脆い砂上の楼閣だったか思い知らされた。

この子が誰かと結婚して子供を産む、その可能性はこんなに近くにある。
それなのに、僕は全然、何の覚悟もできていないじゃないか。
そう思って落ち込んでいた。

だけど、実際はそれどころじゃなかったんだ。

彼女には他に好きな人がいて、こんなところでベイビーのピアノを聞いて一人で泣くくらいに、追い詰められている。

ショックと同じくらいに、憤りがあった。
どこのどいつだ、それは。

人の心は、出産と同じくらい、思い通りにはならない。
自分が尽くしたからって、同じものが返ってくるわけじゃないし、好意を寄せられても応えられないことはある。
だからこんなことで怒るのは理不尽だってわかっていたけど、彼女を泣かせる男のことが、僕はどうしても許せなかった。
ビールを飲み干して、僕はグラスをどんとテーブルに置いた。

「ふーん……そっか。それはショックだね。人生、そういうこともあるか。じゃあ、やけ酒に付き合うから元気出してよ。まあ、俺は運転手だからジュースだけど」
ケンちゃんが気を取り直したように、また彼女と僕のグラスにお酒を継ぎ足した。

「じゃあ失恋の傷はさー、ベイビーに癒してもらったらどうかな? 辛い恋を忘れるには新しい恋が一番だよ」

「………!」

僕はテーブルの下でケンちゃんの足を軽く蹴りつけた。
臨機応変は彼のもうひとつの美徳とはいえ、大胆に方針転換しすぎだ。

冗談とも本気ともつかないケンちゃんの提案に、岡崎さんは耳まで真っ赤になって、首を振った。
「……っ、あの、そんなこと、滅相もない! とんでもないです!」
慌てふためいたように言って、また、ぐーっとグラスを傾けた。

一杯だけのはずが完全に酒盛りと化しているのはまあいいとして……この飲み方は、ちょっと心配だな。
この程度の量で赤くなるくらいだから、岡崎さんは大量のアルコールを分解できる体質じゃないはずだ。飲酒の習慣もない。
ならばきっと、それは彼女の傷の深さを表しているんだろうと思うと、また僕の胸は痛んだ。

「あーあ、ふられちゃいましたね、ベイビー」
肩をすくめるケンちゃんに、僕は憮然と言った。
「当たり前だよ。そういうつもりで呼んだんじゃないって最初に言ったじゃないか。岡崎さん、彼の言うことは気にしないでね」

「あ、違うんです!」
岡崎さんはぶんぶんと首を振った。
「ベイビーのことは私、本当に大好きなんです。私なんかじゃ勿体ない、恐れ多いって意味です。それに……」
泣き笑いの表情を作って、彼女は続けた。
「私、ベイビーを見るたびに、好きな人のことを思い出してしまうから、それを新しい恋には、できそうもないんです」

「ん? それ、どういうこと?」
ケンちゃんの問いに、少し躊躇ってから小さく答えた彼女の言葉は、僕にとって相当の爆弾だった。

「私の好きな人……ベイビーによく、似てるんです」

…………ん?

僕は、口をあけたペットボトルを取り落としそうになった。

誰と、誰が、似てるって?
僕とケンちゃんの視線が交錯する。

「声とか、話し方とか、雰囲気がそっくりで……今も、似てるなあって思って見ていたんです。あ、目許とか、口許も似てるかもしれません……」
そう言った彼女が、とろんとした瞳で僕の顔を見て、僕は咄嗟に顔を背けた。
「だから私……、ベイビーを身代わりにするような失礼な真似は、できません」

僕はごくっと唾を飲んだ。
嫌な予感がする。
この話、続けていいのか?
僕はこれ、聞かない方がいいんじゃないのか?

ケンちゃんがそっと僕に目配せをしたから、僕は小さくやめろと合図を送った。
だけど、その制止を振り切って、ケンちゃんは核心に切り込んだ。

「へぇ〜。ベイビーに似てるなんて、随分胡散臭いんだね。俺も会ってみたいなぁ。どんな人?」

続きを、聞きたいような、聞きたくないような、落ち着かない気持ち。
でも、この部屋から出ていく勇気もなかった。

「いいえ、全然胡散臭くないですよ。誠実で、お仕事に真剣に向き合っている素敵な方です」
岡崎さんは、それまで悲しそうだった顔をその一瞬だけ輝かせた。
それは、その人を思うだけで幸せだって、そう言っているような表情だった。

「仕事って、水商売? 芸術家? カタギじゃないでしょう、どうせ」
「ふふ、そんなことないですよ」
「え、じゃあサラリーマン?」
僕は夢を見ているような気持ちで、目の前の2人のやり取りを眺めていた。

寂しさと嬉しさを半々に混ぜたような顔で、岡崎さんは笑った。

「いいえ。私がお世話になってる、産婦人科のお医者さんです」
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