Dreams - 拍手ログ

□カップ焼きそば物語
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「そのカップ、まだ使ってるの?」

紅茶をすする私の隣で、サクラさんが私のマグカップを見て言った。
「捨てていいんだよ。病院の隣の300円ショップのなんだから」
「いいんです。私の宝物だから」
「しかもこれスーパーのティーバッグじゃない。ハロッズのアッサム缶、まだあったでしょ?」
「今日はこれが飲みたかったんです」
見咎められて少し背を向ける私に、サクラさんは、少し目を細めた。

「……今だったら、同じ店でも、もう少し君が好きそうなカップを選べる自信があるんだけどな」
「ううん、これがいいんです」
少しふちの欠けたカップを、大事に両手に抱えた。

婚約祝いに紅葉さんからもらった青磁のコーヒーカップセットに、乳児院のバザーで買った夫婦湯飲。
この部屋には私用の素敵な食器がいくつかあるけれど、この水玉模様の300円のマグカップは、どうしても手放す気になれない。

「あ、久々にカップ焼きそば食べたくなっちゃったな……」
私が小さく呟くと、
「買ってあるよー、たくさん。プロがお作りいたしましょう」

サクラさんが笑いながら、年季の入ったやかんでお湯を沸かし始めた。


******


「ここだよ」
鴻鳥先生の言葉に、私は顔を上げた。
「何もないとこだけど。さ、どうぞ」
ドアを片手で押さえてくれる鴻鳥先生に軽く頭を下げて、私は逸る気持ちを抑えてエレベータに乗り込んだ。
「本当にご近所だったんですね。私、このマンションの前、何度か通りすぎてました……」
個室内に貼られた張り紙に何気なく目をやりながら言うと、鴻鳥先生も頷いた。
「今まで知らずにすれ違ってたかもね」

エレベータを出ると、鴻鳥先生は廊下の中ほどにあるドアの前で立ち止まった。
表札も飾りもない、殺風景なドア。部屋番号を忘れてしまったら左右の部屋と間違えてしまいそう。
私はそのプレートに印字されている番号を頭に刻み込んだ。

鍵を回してから、鴻鳥先生がふと、こちらを見た。
「どうかした? 表情固いけど」
「いえ、なんでもないです」
激しく首を振る私の顔を、鴻鳥先生がじっと見た。

「あ……もしかして警戒してる?」

「え?」
思いもよらない言葉に、びっくりして先生の顔を見る。

「大丈夫、いきなり押し倒したりしないって」
苦笑する鴻鳥先生に、私は慌てて否定した。
「違います! そんな心配全然してません!」
「とりあえず、今日のところは、たぶんね」
「……え?」
「アハハ、嘘、嘘! そんな顔しないで、本当に何にもしないって!」
「あ、あの、本当に警戒なんて……」
「いやいや、男の部屋にあんまり無防備に上がり込まれても心配だから、それでいいんだよ。でも、僕以外の部屋には絶対上がったらだめだよ。男の『何もしない』なんて言葉は絶対嘘だからね」
鴻鳥先生は、明るく笑って、ドアを大きく開け放った。

「……本当に、ただ緊張してるだけですよ。男の人の部屋に入るの、初めてだから」
私の言葉に、先生は嬉しそうに頷いた。
「じゃ、一緒だね。僕も緊張してるよ。女の子を部屋に招くの、初めてだから」

言葉とは裏腹に、落ち着いた様子で私を中に入れて、先生は廊下のスイッチを押した。
「ごめんね、来客とか想定してなくて、スリッパもないんだ。今度用意しとくけど、今日はそのまま入ってくれる?」
促されるまま、廊下の奥のドアを開けると、そこは明るくて開放的なLDKだった。

「わ………、綺麗ですね」
ドラマのセットみたい。
家事全般苦手な男性の独り暮らしとは思えない。
「散らかすほど家にいないからね」
「それに、すごく広いですね」
この部屋だけで20畳くらいありそうなのに、さらにいくつか奥に続くドアが見える。

「一人で住むには広すぎるんだけど、病院に近くてグランドピアノ可の物件が他に見つからなかったんだ。おかげで引っ越しもままならなくて、10年ここにいるよ」
言いながら、鴻鳥先生は優しくソファを指し示した。
「お茶淹れるから、座ってて。何もなくて恥ずかしいんだけど」
「そんな、全然……」

控えめに部屋を見渡す。
ここは、きっと2、3人用の物件なのだろう。
カウンターの奥に、広いシステムキッチンが見えるけれど、使用感はまるでない。収納も多そうなのに、ほとんどの棚が空っぽだ。
でも、スリッパや食器が揃っていないことが、無性に嬉しかった。かなり長い間、この部屋を訪れる女の人がいなかったってことだ。
顔がゆるむのを隠しきれない。

カウンターの中から、鴻鳥先生が言った。
「もし、いつかここでも料理を作ってもらえるなら、道具や食器も色々揃えないとね。何が足りないのか見てくれる? 今度一緒に買い足しに行こう」

ドキンとした。
それは、何だかすごく彼女っぽい。

恋愛経験が皆無の私は、「付き合う」と言ってもどうしたらいいのか、よくわからない。
忙しい鴻鳥先生への遠慮もあって、今はメールが来れば返すし、誘われたらデートするだけの完全に受け身状態で、こんなことでいいのかなって思ってた。
でも、部屋に呼んでもらえて、一緒に買い出しなんて、距離が一気に縮まる気がするな。

そんな思いで、いそいそとキッチンを見せてもらった私は絶句した。

炊飯器、菜箸、ボウル、バット、計量スプーン、フライパン。
料理をするのに必要な基本的なものが、全然ない。
「基本、お湯が出れば僕の生活は成り立つからさ」
紅茶のティーバッグにやかんで沸かしたお湯を注ぎながら、ばつが悪そうに鴻鳥先生が言った。

買いに行くにしても、何から手をつけていいかわからない。醤油も味噌も味醂もない。
あるのは、やかんと電子レンジ。空っぽの冷蔵庫に、ごくわずかな食器類。
マグカップが二つあるのが奇跡だと思ったら、
「昨日取り急ぎ、これだけ買ってきたんだよ」
と、真新しい水玉柄のカップで紅茶が出てきた。

ごく普通のマグカップだけど、鴻鳥先生が私のためだけに買ってくれたカップだと思うと、すごく特別なものに思える。
しかも、この家に初めて置いてもらえる、私のためのものだ。
嬉しくて、私はカップの柄をぎゅっと握りしめた。

「コーヒーより紅茶が好きだよね? それは何となくわかったんだけど、安物で悪いね。参考までに、好きな銘柄を教えといてくれる? 次は用意するから」
「そんな、何でもいいんです。それにコーヒーだって飲めますよ」
私が手を振ると、鴻鳥先生は自分もインスタントコーヒーに口をつけながら言った。

「知りたいんだよ。君がどういうものが好きで、どういうものが苦手なのか、僕は一つずつ知っていきたいんだ。好きな人のことは、何でも知りたいからね」

私は、ドキッとして鴻鳥先生の顔を見た。

好きな人。
鴻鳥先生は、時々私のことをそう呼ぶ。
「彼女」とか「恋人」じゃなくて、
気持ちに突き動かされて一緒にいるんだということ、そしてその気持ちは今も変わっていないということを、私にその都度伝えてくれる。
気持ちが温かくなって、私は手元の紅茶を見つめながら言った。

「私、二年だけイギリスにいたことがあって、そのとき紅茶が好きになったんです。特にアッサムとかセイロンが好きです」
「へえ、イギリス。留学?」
「はい、高校と大学の交換制度で」
「道理で、綺麗なクイーンズイングリッシュだと思った。僕のは医学部英語とミュージシャン英語のチャンポンだから、ガタガタのブロークンでさ」
「そんなことないです。でも、私にはイギリスのものが結構、肌に合うみたい」
「なんか、わかるな。アメリカって感じじゃないよね。って、僕はどっちも行ったことないけど」

他愛もない話から、わずかずつ見えてくるお互いの輪郭。化石を丁寧に掘り起こすようなこんな会話を積み重ねて、いつか誰よりもわかり合えるようになれたらと、私も思う。

ふと、キッチンの棚に、カップ焼きそばが山と積まれているのが目に入った。
あれは、比較的早い段階で教えてもらった鴻鳥先生の好物。

「あ、カップ焼きそば……私、食べたことないんですよね」
「珍しいね」
鴻鳥先生が目を丸くした。
「まあ、食べなくても支障ないというか、食べずに生きてければそれに越したことないよね」
「今まで、あまり縁がなくて……美味しいですか?」
「味見してみる?」
「いいんですか?」
「いいよ、もちろん。中途半端な時間だし、二人でひとつ作ろうか」

鴻鳥先生が、再びお湯を沸かしはじめる。
「嬉しいですけど、すみません、せっかく買ったものなのに」
「ご覧の通り、山ほどあるから。ご馳走できるものがあって良かったよ」

私の見ている前で、手際よくパッケージが開けられていく。
乾燥具材を麺の下に敷いて、お湯を注いで蓋を閉める。
蓋の上で液体ソースを温めて3分後、先生は器用にお湯を切った。
「そうやって作るんですね」
しげしげと見る私に、鴻鳥先生は真剣な表情で頷いた。
「素人がやると、蓋の隙間から麺が全部こぼれてダメになることあるから気を付けて」
「む、難しいんですね……! プロにお任せします」
「……アッハハ!」

楽しそうに笑いながら、先生は私の前にできたてのカップ焼きそばと割り箸を置いた。
「先どうぞ。僕は毎日食べてるから」
おそるおそる、箸をつける。
「いただきます……あ、美味しい」
「まあ、インスタントなりの味だけどね。待ち時間もあるし、のびやすいし、仕事中に食べるには本当はパンとかの方が向いてるんだけど、好きなんだ。日保ちするし」

私は、もう一口食べた。
今まで食べたことのない味だけど、スパイシーで癖になるかも。
鴻鳥先生が毎日これを食べてると思うから、余計に美味しいのかもしれない。

「あ、私ばっかりごめんなさい。先生もどうぞ」
「食べられそうなら食べちゃっていいよ」
「いえ、そんな……。あ、でも食べかけを差し上げるのも失礼ですね」
「あ、全然。いただくよ」

鴻鳥先生が、まったく何の躊躇もなく、私の前から、箸ごと焼きそばの容器を取り上げた。

「………!」

それ、私が使った箸なんですけど、と思う間もなく、綺麗な箸使いで焼きそばが先生の口に運ばれていく。

こ、これって、間接キス……!

いや、直接キスもしたことあるけど、食べ残しを食べさせるって、飲み物の回し飲みとかよりハードル高いような。
鴻鳥先生、嫌じゃないのかな。

私の表情に気づいたのか、鴻鳥先生が箸を止めた。
「あ、ごめん。こういうの抵抗ある? 取り皿に分けた方が良かったか」
お箸も一組しかないから今度買いに行かなくちゃね、と言いながら食べ続ける先生に、私は慌てて首を振った。
「わ、私は全然大丈夫ですけど……悪いなって思って」
「どうして?」

どうしてって……
鴻鳥先生があまりにも自然にそうしたから、ドギマギしてしまう。
そりゃ、嫌いな相手だったら抵抗あるけど、好きな人なら、どちらかと言えば……嬉しい。

「無理に食べさせたみたいで、すみません」
すっかり空になった容器と割り箸を前に私が頭を下げると、
「全然そんなことないよ。食べてみたいって言ってくれて嬉しかったよ」
鴻鳥先生が微笑んだ。
「インスタントなんて食べ慣れないだろうに、大丈夫?」

確かに食べ慣れてはいないけど、鴻鳥先生の要素の一部が私に入り込んできたような気がして、私は言った。

「先生の好きなものを食べてみたかったんです。私も、好きな人のことは、何でも知りたいから」

「………」

鴻鳥先生は、容器を片付けようとした手を止めて、真顔で私の顔をじっと見た。

「あの、鴻鳥先生?」
何も言わないから不安になって、問いかけるように首を傾げると、先生は少し目を細めた。

「……好きな子が、自分の部屋にいるって、いいね」

「え」
「人目を気にせず、イチャイチャできるもんね」
「……え?」

容器をテーブルに置き直して、隣のソファに座った先生が、少し距離を詰めてくる。
「!?」
私が少し距離を広げると、また、詰められる。

「あ、あの」
「間接キスじゃなくって、直接しよっか」
「……!」

え、今? このタイミングで!?
私は息を飲んだ。
わ、私、青のりとかついてないかな?
時間を稼ぐように、小さく言った。
「でもあの、先生、さっき何もしないって……」

鴻鳥先生の手が、私の手に重なった。
「ああ、言ったね。でも、こうも言わなかった? 男の『何もしない』は絶対嘘だから信用するなって」

「………!」

思わず目を閉じる。ふっと少しだけソースの香りがして、鴻鳥先生の唇が、ゆっくり私の唇に触れた。

「……っ」
恥ずかしくて唇を引くと、追いかけるようにまた塞がれる。

食べたばかりで、歯磨きもしてなければリップもつけてないのに。
……でも、最初にキスしたときより、柔らかさとか、気配とか、そういうものが感じられて……、気持ちいい、かも。

しばらくして、唇を離した鴻鳥先生が、首をすくめる私に心配そうに言った。
「……嫌だった?」

「嫌とかじゃ、ないんですけど……」
私は、下を向いたまま、やっとの思いで言った。

「あの……カップ焼きそばの味、しませんでした……?」

「………え?」
鴻鳥先生が拍子抜けしたような声を出す。
「全然わかんなかったけど。あ、もしかして僕が? 気になった?」
「いえ! 緊張して私は全然わかんなかったです……」
「はは、なら僕と同じだね」

「……本当に?」
上目遣いに様子を伺うと、鴻鳥先生は相変わらずの涼しげな顔でにっこりと笑った。

「もっとすごいキスしたら、味もわかるかもね?」

「………! わ、私、そろそろ帰ります……!」
私が慌ててソファから立ち上がろうとすると、鴻鳥先生が笑いながら引き留めた。
「アハッ、冗談だって! そんなに警戒しないでよ〜」
「でも……」
躊躇う私に、鴻鳥先生が奥のドアを指差した。
「あっちにピアノがあるんだよ。一曲聞いてかない?」

「あ、それは、聞きたい、かも……」
ベイビーのプライベートなピアノ。その誘惑にはなかなか抗えない。

「了解。何でもリクエストお聞きしますよ、お客様」
今度こそ容器をゴミ箱に捨てた鴻鳥先生が、微笑みながら奥の部屋に通じるドアを開けた。

その向こうに、大きなグランドピアノが見えた。


fin.
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