思いつくままに

□知らなくていいコト
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「え…じゃどうして僕らは別れたんですか?」
それは僕にとっては根源的な問題だった。


ケイさんが…好きだった。
理性(と僕は思っていた)で別れを口にしたが、多分感情では…ずっと彼女を欲していた。
朝のリビングで柔らかな笑みを浮かべる彼女。その彼女を眺めながら、胸にクッションを抱いて柔らかなソファに身を任せる。柔らかい朝陽が僕らを包み込む。
そんな…あの日々は…?

後で判ったこと。
彼女が本気でずっと愛していたのは、別れた男だった。
その男は、きっと僕と同じように彼女の自出に引っ掛かり別れたに違いない。だって、そうだろ?誰が好き好んで自分から選ぼうというのか?人を殺したその遺伝子が自分の子供へと受け継がれるのを。
ケイさんに罪はない。
それは解る。
だが。
受け付けられなかった。生理的に。
僕は…酷い人間か?そこまで…酷い人間か?


小中高大と学生時代、特に苦労した覚えはない。
勉強も受験も大過なく潜り抜けてきた。人並みの努力はしたが、それだけのこと。他人から見れば結構な学歴かもしれないが、別に大したことではない。それ相応の努力はしたが、出版社に就職できたのも、相応の自分だからこそと思っていた。
唯一の趣味は将棋。高校時代は部活で主将も務めた。
多分顔はそこそこ良い。自分ではそんなに社交的でもないが、この外見と学歴で苦労したことはない。

そして。
入社してすぐ。
いろいろと指導してくれた先輩のケイさん。
若手だけどカメラマンと一緒によくスクープを取ってくる。そして、きっと。そのカメラマンは彼氏なんだろう。編集部内では言わずと知れた関係だった。
それでも。
僕は彼女に惹かれた。さっくりと後を引かない性格、些細なことで気付く彼女のフォローや気遣い。奔放な自由さと大胆さ。いつしか彼女を目で追うようになっていた。
何故だかは知らないが彼女がカメラマンと別れてフリーになったと知り、精一杯の勇気を出して交際を申し出た。
何故だかは解らない。
だが。彼女は僕を選んだ。
それから2年。
以前のカメラマンだった彼氏は、別れた後出版社を辞めフリーとなった。被写体を動物に変更し、彼女との接点は減った。暫くして取材で知り合った女性と結婚し、今では子供も居るそうだ。
年上で仕事の上では先輩。でも可愛い人。母親に急逝され、自分が守ってやらなくてはと思った。彼女となら幸せな家庭が築けると思ったからこそのプロポーズだった。


なのに。
何故だ?

どうして彼女はあんな事を言ったのだろう?
『私が殺人犯の娘だとしても?』
僕のプロポーズにそう問い返したケイさん。
何を言ってるんだ?理論整然と時系列を整理してあげる。
多少納得して落ち着いた彼女。

だが。
次の日僕は仕事を休んだ。
一日中部屋に籠もり、彼女の言葉を考えた。
父親が殺人犯。
彼女は、殺人犯の娘。
もし、彼女と結婚して子供が生まれたとして―――いや、子供は欲しいから、”もし”ではなくそこは”絶対”だ―――その子は人を殺した男の血を引いている。自分の血を分けた子供が殺人犯の孫であるという状況に…僕は耐えられるか?
いや、そもそも…殺人犯の娘である彼女に…僕は耐えられるのか?

カーテンも開けず、終日薄暗い自室の中で考え…夜になって家を出た。鍵だけを握り締めて。
彼女にその鍵を返す為に。あの頃、彼女から貰ったその合鍵の存在は、本当に誇らしかった。
その合鍵を、彼女に返す為に手に持つ。決して落とさないように。この合鍵さえ返せば、僕と彼女の間には何も無くなる。

プロポーズを撤回する赤裸々過ぎる僕の言葉と、玄関に置いた合鍵に、彼女は信じられないものでも見るかの様に立ちすくんでいた。
そんな彼女を置いて僕は玄関のドアを閉じる。

終わった!
終わった!
終わった!

とんでもなく大変な荷物を降ろしたような達成感に、足早に帰路を辿る。
終わった!
もう関係ない!
殺人犯も何も関係ない!
僕の生活にそんな言葉は存在しない。
そう。
存在しない。
そんな言葉なんて。

僕は……。
僕は…ただ…幸せになりたかっただけなのだ。


  野中春樹著『闇落ちする亀』冒頭より抜粋
―――・―――・―――・―――・―――・―――

当時は…それが正しいと信じていた。
そう思っていた当時の思いをそのままに綴った。だから無駄にプライドの高かったり裏返しの劣等感だったりも当時のままに書いた。それは当時…随分と鼻につく人間だっただろう。
手元の書評に目を通しながら、当時を思い返す。

「―――先生?」
我に返る。
「ああ…何?」
「この後のサイン会なんですが―――」
「任せるよ」
言い募るのをすっぱりと切り捨てる。
「そこは任せるから好きにしてくれ」
こういう物言いをした時の俺が何も聞くつもりのないのは、短い付き合いながらこの編集者は解っている。彼の仕事には感の良さが必要だ。

サイン会の控室に入って、先程編集者が言わんとしたことが判明した。
一つ目はサイン会の規模が予定より随分大きくなっていた件。ファンが殺到し、捌き切れないからと。お陰で時間が伸びるが大丈夫かと。それは別にいい。ファンが多いのは良いことだ。笑顔でファンにサインを書くのは、別に苦痛ではない。それはきっと…自己顕示欲なんだろうと、心の中で苦笑する。

もう一点。
サイン会前の時間に同系列の週刊誌からのインタビューが入っていた。
インタビュアーは既に控室のソファーに座っている。
その後ろ姿の既視感にちょっと眉を顰める。

俺に同行していた編集者が慌てて、
「申し訳ありません。実は当社の『週刊EAST』から急遽取材の申し出がありまして…」
と告げる。
任せると言って聞かなかったのは俺だ。
「ぁあ…」
低い声で応える。
『週刊EAST』?
言わずと知れた俺の古巣だ。3年前、追い出されるように立ち去ったあの編集部。今でも覚えている。
あの時の自分の言葉を反芻しながら、只管原稿を打ったのだから。

すくっとインタビュアーが立ち上がり、こちらを向く。
「宜しくお願い致します。『週刊EAST』真壁ケイトと申します」
余りにもお約束な人選に一層眉を顰める。
「あなたは確か今デスクなのでは?どうしてこんな所にいるのですか?」
ほんの僅か目を瞠る。
「―――どうして」
そんなことを俺が知っているのか?
「別にそれ位のこといくらでも聞こえて来ますよ」
でも興味がなければ知ることの無い情報。あれだけ無様に編集部を追われた俺が、その後の人事に興味があるとは思えなかったんだろう。
当時の経緯はEAST内でこそ周知の事実だが、他の部署までは広がってなかったようだ。勿論知ってる人間は知ってる。
多分この編集者も。だからこそ、一言伝えようとしていたのだろう。親切心からかもしれないが、余計なお世話だ。
今の自分には、どうでもいい。
あの当時の経緯も、何もかも。過ぎたことだ。

ドサッとソファーに座る。
素早くちゃんとしたカップに淹れたコーヒーがテーブルに出てくる。当時の編集部のような紙コップではない。
ミルクを垂らして掻き混ぜる。
「で?」
インタビューを始めるよう促す。

「野中先生はどうしてこの作品を書こうと思われたんですか?」
ソファーに凭れ、ジロっとインタビュアーの顔を見る。
「作品を読んで下さい。そこに書いてます」
と、素っ気なく。
言外に『読まずに来たのか?』と問い掛ける。
「先生の言葉でお聞きしたかったので」
臆せず言い返す彼女。
「何ですか?この茶番は。俺は書いてますよね」
この作品に。
そうテーブルの著作を示す。
「記事のアオリ文句は…そう『幸せになりたかった!』それでいいでしょ」
本の帯書きの文言を敢えて口に出す。

「僕は幸せになりたかった。彼女を愛してもいたし、執着もしていた。でも、それよりも自分の世界が予想もつかないものに浸食される怖さが勝っていた。確かに僕は愚かだったかもしれないが、そんな人間の弱さに共感する人もいる」
だから、売れた。
綺麗事ではなく、赤裸々に人の愚かさ加減、弱さ加減、下劣さ加減を描いた。
『ほんとクズだよね〜』それが世間の視線。
そんな風に思いつつ、でも…その弱さを自分も持っていることを密かに自覚する。そして…『幸せになりたい』というその願いに共感する。
そんな読者がいたからこそ、売れた。
一発屋になるつもりはない。既に二作目は準備できているし、連載も進んでいる。

彼女は、事実をどこまで絡めて記事に書くつもりだろう。
作品では実名は入れてないし、そこは知らない人間には分からない。そこを、敢えて暴露するのか?
『週刊EAST』は。

やりたきゃやれ。
俺には、何もない。
この作品を書く為に、プライドも自負心も羞耻も総て晒した。
本当に…ただ…願っただけだ。『幸せになりたい』と。

いつしかコーヒーが随分とぬるくなっていた。
「野中…」
顔を上げる。
「相変わらずのクズかと思ったけど…」
ちょっと笑った。
「そのピュアさは伝わった」
思わず眩しくて目を細めた。
「俺はずっと―――」
『ピュアでしたよ』というのは気恥かしい。
「一途でしたよ」
そう、その想いは。



白や薄ピンクの花弁が舞う。
幾つかは花嫁のベールにふんわりと留まっている。
「いや〜まさかケイトが野中先生と結婚するとはな〜」
今は局長となった男の、本気かどうか定かではない『先生』呼びが耳に入る。
彼はきっと別の男と彼女との結婚を望んでいたのだろう。
幾つになってもふっくらと若々しい彼女は、強気な瞳をウエディングベールの下から覗かせて、
「こればっかりは縁とタイミングですから」
といたずらっぽく笑ってみせる。
「まぁな。男と女はな…」
釈然としなさそだったが、その思いを振り払うかのように、
「いや!めでたい!ケイトと野中の結婚式にまさか参列するようになるとは!」
と声を挙げる。
「それ…俺にとっては…」
そう。
何事もなければとうに叶っていた絵だった。
「野中良かったな〜!闇堕ちしてみるもんや!」
後ろからテカテカ頭で現編集長がどついてくる。
「やめてくださいよ」
「おいおい、お前野中先生になんてことするんだ」
相変わらず芝居かかったやり取りが新旧の編集長の間で続いている。

「はる君」
と、あの頃と同じ呼び方で彼女が。
「何?ケイさん」
笑ってる。
「いや、夜中に酔っ払ってうちに来て、ゲロ吐いて、お尻叩いて追い出した野中と」
思い出した。
「こんな風になるなんて」
そう。あそこが始まりだった。
『小説でも書けば』
惨めさと申し訳なさとプライドと嫉妬とでグチャグチャになってた俺に、そう言葉を掛けた彼女。
もう二度と『はる君』なんて呼ばれる時が来るとは思わなかった。
『ケイさん』と呼べる日が来るとは思わなかった。

「でさ」
「はい?」
「なんで亀なの?」
にやっと笑って見せる。
「教えない」
「え〜!」

手が届かないから幸せ。
いや。
それはちゃんとそこにある。自分で見ようとさえすれば。
一番大事なものに正直になりさえすれば。

幸せは、ある。

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