Coin toss Drive 〜 C to D 〜

□Contrast
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「わ…!」
 入った瞬間、思わず感嘆の声を上げてしまった。
 中は、見渡す限り本、本、本だらけ。ここがあのワゴン車の中だとか、現実的に有り得ないような広さと構造だとか、そんな不可解さなんかまるで気にならなくなるくらいに非常識なスケールだ。壁がすべて書棚で、サイズも言語もまちまちな書籍が乱雑に並ぶ。適当に放り込んだとしか思えない、一見無茶苦茶な詰め込み方だが、ほとんどの文字が初めて見るもので背表紙に何が書かれているのか解らず、どういう分類でこうなっているのかも解らない。ただ、手荒に扱われている印象はなく、少なくとも見える範囲にあるものはどれも埃ひとつ被っていなかった。
「…すごい」
 どの棚もぎっちりと本で埋め尽くされていて、分類はともかく、蔵書量はとんでもない。ただただ目の前の光景に圧倒され、本来自分が持っている人見知りや引っ込み思案は、興奮と好奇心に完敗して胸の奥に引っ込んでしまった。
「図書館みたいだ…」
 でも、こんなにへんてこな造りで、しかも莫大なのは見たことがない。建物の構造自体は簡単で、高層ビルの真ん中をくり抜いて、壁と廊下だけの吹き抜けにしたみたいな感じなのだが、幅はともかく、奥行きと高さに関しては果てがないように見えた。
「図書館だもん」
 なぜか誇らしげな笑みを浮かべてDが言った。年格好は20代後半に見えるのだが、ちょっとした表情や仕草がやけに子供っぽい。
「でも、いつでも、誰でも入れるわけじゃないからね。君みたいなのは特別なケースなんだよ」
 口を開けっぱなしにしたまま辺りを見回していると、Cがぽんぽんと肩を叩いて先へと促した。Dとは対称的に、Cの言い回しや所作からは大人びた印象を受ける。“大人びた”という表現を使ってしまうほど見た目が少年じみているのも、Dとは正反対なのが面白い。
 Cは右側の棚と柵の間の狭い通路を奥へと進んだ。入口のドアから先は、2mほどですぐに柵に行き当たる。ドアの凝った意匠のわりに入った先は素っ気なく、エントランスとかロビーといったものはないようだ。壁抜けでもして、建物の中途半端な位置に出てしまったような違和感がある。そこから左右の壁(書架)づたいに伸びている通路以外に、通れそうな所は見当たらない。それも人が一人やっと通れるほどの幅しかなく、柵の向こうは底の見えない本の絶壁だ。こんなとこで誰かとすれ違うのは大変そうだな、というか、無理なんじゃないだろうか。どうにか通そうとしてうっかり落ちれば、アリスみたいに無限に落ちていくのかもしれない。上を見たって天井もまったく見えないし、そもそも“上階”というものがあるのかな。今のところ階段なんかも見てないし、あちこちにかかっている梯子は、どれも一般家庭の天井にやっと届くくらいのサイズで全然役に立ちそうもない。そう言えば、このずっと上に天井が存在するとしたら、一体どんな照明器具を使っているのだろう。まるで隅々まで柔らかな陽の光に照らされているかのように、どこもかしこも室内だとは思えないほど明々としている。こんなに明るいのに、光源になっているもののひとつも見つけられないなんて謎だ。
「あんまりよそ見してると危ないよ」
 後ろからついてきていたDが、少し笑い混じりに言った。さっきからずっと思っていたけど、Dの声はすごく格好いい。高すぎず、低すぎず、耳に心地いい声だ。Cも滑らかできれいな声だけれど、格好いいと言うよりは可愛いと言う方がしっくりくる。…と、また『大人と子供』みたいに対比してしまってる。ここまで対照的だと物語か何かのキャラクターっぽいな。そう考えて少しにやけてしまいそうになったのをこらえながら、振り返って小さく頷くと、Dはにひゃっと笑顔で返してきた。
「こっちだよ。入ってきて」
 後ろに気を取られていたら、今度はCに呼ばれて慌てる。前に向き直ると、数歩先を歩いていたCは、壁から半身出して手招きをしていた。一瞬、本棚の中に入っているのかと錯覚したが、見れば棚側から開いたドアが通路を完全に塞いでいる。本棚に挟まれて、別の部屋があったのか。棚も床も柱もドアも、つやつやに磨かれた同じ色合いの木材だから、ボーッとしてたら見過ごしてしまいそうだ。
「ごめん、結構歩かせちゃったね。空いてる部屋がなかなかなくてさ」
 そうCは言ったが、空き部屋を探しながら歩いてるようには見えなかった。そもそもここまでの間に部屋なんかあったっけか。見過ごしてたにしろ、不思議なことばかりだ、ここは。だって、この部屋のドアと壁がフラットなのがもうおかしい。入るときに書棚とドア枠が平坦なのを確認してるのに、部屋の中に棚の分の出っぱりがないのだから。
 部屋の中は、ここまでと違って常識的な広さだった。本棚もなく、オフホワイトの壁には大きめの風景画が飾られ、反対の壁にはカップや皿といった食器類が収まった、シンプルな造りの戸棚が置いてある。部屋の中央には、これもまたシンプルなデザインのテーブルが一つと椅子が四脚。奥の壁には左端にドアが一つあり、さらに奥に部屋か何かがあるらしかった。無意識に上へも視線を巡らせると、この建物の中で初めての天井を発見した。が、やっぱりここにも照明の類いはないようで、部屋中が勝手に明るくなっているみたいだった。口を半開きにしたままキョロキョロしていると、Dにプッと吹き出されてしまった。すかさず嗜めるようにCがその肩を叩く。軽い動きだったにも拘わらずすごい音がしたと思ったら、Dは濁音混じりの短い悲鳴を上げて壁にすがり付いた。そんなDに構わず、こっちに向き直ると涼しい顔でCは言った。
「そこの椅子に座ってて。お茶でも淹れてくるよ」
「え…あの…」
 奥の方に行こうとしたCに声をかけると、ふと何か思い付いたように彼は立ち止まった。流れでついてきたものの、このままいていいのかという、こちらの今更な躊躇に気づいたわけではなかったらしい。
「ああ、でも、長くなりそうだから食事の方がいいかな。…D」
 そう呟きながら、こちらの呼び掛けには答えずにDの方に振り返った。人差し指を上に向けて、くいくいと曲げて呼ぶ。
「んんんー、分かったよっ」
 その仕草だけで何か察したのか、Dは肩をさすりながら痛そうな顔で何度か頷き返すと、ヨロヨロと奥のドアの向こうに消えた。どうやら気の毒なことに、昼間の運転やらに続いて、お茶や食事の用意も彼の担当になったらしい。この二人っていつもこんな感じなんだろうか…。
「じゃあ、その間に僕と話しようか」
 そう言いながらCが椅子に座ったので、お茶を辞退する意思も告げられないまま、仕方なく向かい側の席についた。
「とは言え、さぁて、どこから話したもんかなあ」
 Cは頬杖をつき、もう片方の手をテーブルについて、指先をぱたぱたと羽ばたかせるようにして叩いた。ほんの少し開いた唇から、大きめの前歯が覗いている。そうやってるとタレ目のリスかハムスターみたいだ。何かを探すように瞳だけを上向かせているのが、容姿に似合った可愛さで、思わずくすりと笑ってしまった。
「ん? 笑ったね」
 上向いていた瞳がこちらに向けられて狼狽える。明るいところで改めて見るその色は髪と同じ栗色で、真っ直ぐで真摯な光を湛えていた。
「あ。…ごめんなさい」
「なに謝ってんだよ。笑ってくれたから、ちょっとホッとしたのに」
 Cは細めの目をさらに細めた。その笑顔はとても嬉しそうで、なんだかドキリとさせられる。
「君あんまり喋らないし、怖がらせちゃってるかと思ってたからさあ」
「別に、怖がってなんか…」
「そう、怖がるはずないんだよ。そういう力が働くようになってるから」
「力?」
「警戒したり、怖がったりしたら、色々お話しづらいでしょ。だから、そうならないような魔法をかけてる」
 Cはそう言いながら、少し芝居がかった調子で人差し指を立ててくるくると廻した。
「…」
「…冗談だよ?」
 と、Cはにこりと笑ったが、冗談とも言い切れない気がした。知らない人たちと知らない場所に来た際に生じるべき不安や恐ろしさを、ほとんど感じていないのは確かなのだから。この人たちは一体何なのか。気さくな対応と笑顔に騙されてはいないのか。そんな風に考えたのを理解したかのように、Cは続けた。
「怪しい二人組について来た時点で、君のいた“日常”からは大きく外れちゃったよね。この非日常は不自然で不可解だけれど、どこか現実に引っ掛かっていて、まるで良くできた夢の中にいるみたいだろ? 実際、そんなもんなのさ」
 Cの澄んだ声で淡々と紡がれる言葉は、まるで呪文のように直接胸に浸透していく。夢のような人たちと夢のような場所で起こる夢のような出来事はすべて、夢。納得することは簡単で、そう信じてしまえばここでこうしているのはなんの不思議もないことのように思えた。今度こそ本当に魔法をかけられたのかもしれない、などと考えたら、ほんの少し気が楽になった。なんにしても絶賛体験中で、どうやらすでに引き返せやしないようなのだ。
「そうそう、リラックスして。…そうだな、まずはその本、見せてもらってもいい?」
 差し出された手に、ずっと抱えっぱなしだった本を素直に渡した。それをそっと受けとると、Cは無言で丁寧に開き、静かにページを繰った。整然と並んだ活字に視線を走らせながら、Cは呟くように訊いた。
「…いつからこんなんなったの?」
 そう言われて、微妙に安堵した。この本の方がおかしいのだと認めてもらえたことが、単純に嬉しい。“こんなんなった”その本を誰に見せても、Cのような反応を示す人はいなかった。本に起こっている“異常”に気づいているのはどうやら自分だけであるらしく、そのことが、本の状態以上に自身を不安にさせていたのだった。
「分からない。…この前、久しぶりに開いてみたら、もう…」
 首を振りながら答えたが、Cは明確な答えを期待していなかったようだ。
「そっか」
 と軽い調子で言いながら、最後のページまでぱらぱらと捲って本を閉じた。ほんの少し親指をずらすだけでページが繰られていく様子は、風が悪戯でもしているかのように滑らかな動きで、つい見とれてしまった。視線に気づいたCはほんの少し頬を緩める。
「大丈夫。ちゃんと元に戻るから、心配しないで」
 そういう心配をしていたわけではないのだけど、Cと視線を合わせているのが気恥ずかしくて、頷いた体で視線を外した。会話を繋げることが出来なくて戸惑いかけたところで、奥のドアが開いた。Cは舌打ちしたが、こっちにしてはグッドタイミングだ。
「ほーい、おまたせーっ! ごはんにしよお」
 奥に引っ込んでいたわずかな間にご機嫌は治ったらしく、Dはやたらと大きな声と笑顔で戻ってきた。料理が乗っているらしいワゴンを嬉々として押しているそのテンションに、Cはあからさまに顔を歪め、テーブルに本を置いてから気を取り直したようににっこりと笑いかけてきた。
「嫌いなものとか、食べられないものはある? 好きな食べ物は?」
「うおおい、無視すんなあっ!」
「今食べたいものでもいいよ。なんか言ってみて?」
 なんでもいいと言われても、とっさに思い付くものなんて限られていた。大好物かと言われればそれほどでもないけど、誰でも知ってて、あまり嫌う人もいないだろう無難なメニュー。
「…ううん…カレーライス…とか」
 勢いに圧されて答えたけれど、すでに料理が出ているのに、なぜそんなことを訊くのか解らなかった。まさか、客の好みじゃないものを出したと難癖をつけてDを苛めるつもり…じゃないよね。ワゴンに被されたままの白い布と、Dの顔を見遣る。あれ? …なんか、笑ってる?
「カレーかあ、いいねぇ。…というわけで」
 Cがにんまりと笑って目配せすると、Dはワゴンに被された布を掴んだ。
「じゃーんっ! 中身はなんと! D特製スペシャルカレーでぇっす!!」
 Cの合図で取り払われた布の下から、大きな鍋と炊飯ジャーが現れた。と、同時にカレー特有のスパイシーな香りが漂ってくる。
「え?」
 鍋の蓋を開けると、香りは更に強くなって、空腹をダイレクトに刺激してきた。いや、でも、蓋を開ける前から結構強烈にカレーな香りがしてたのに、布を取るまで全然気づかなかった。と言うか、こっちが「カレー」と口に出してから、ワゴンの上にカレーが現れたような気がする。
「偶然だねえ。Dのカレー、わりとイケるんだぜ?」
「わりとって…」
 Dの苦笑いを「細かいこと気にすんな」と軽くあしらって、Cはワゴンの下段から皿を取り出している。
「さ、食べよ食べよっ。サラダと福神漬、らっきょもあるよ」
「ふくじんづけ…」
 突っ込み所は満載だったが、すぐに大盛りのカレーやらサラダやらを並べられて、強引に食事が始められた。
 カレーはなんだか、本当に、猛烈に美味しかった。


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