猫のしっぽ
□13 くつう
1ページ/2ページ
終礼が終わるといつもするりと教室を出て帰ってしまう彼女が今日は俺の席の側を通ると、先に昇降口行ってる、と言って教室を出て行った。
その言葉通り後を追って昇降口へ降りると、見つけづらい下駄箱の影に彼女はひそりと立っていた。
お待たせと笑いかければ彼女はまあるい瞳でくるりと俺を見上げると、つんと先を歩き出した。
初めて一緒に帰るわけではないけれど、約束をして帰るというのは新鮮なもので少し気分が高揚する。
そんな俺に対して彼女がどんな気分なのかはいまいちわからないものの、一見冷たい態度に思われた様子はすっかり通常通りの自由っぷりに戻っていた。
彼女はまるで小学生の男の子のように小さな小石を蹴飛ばしながら歩いて、やがてにやりと笑うと俺に誘いをかけた。
彼女と交互にその小石を蹴飛ばしながら進めば、なんだか童心に戻ってお互いけらけら笑い合う。
するとそんな気分の所為で通りすがりの公園へ入りこんでしまい、受験生なのにこんな所で遊んでいていいのかな、と冗談めいて問いかけると、息抜きは大事でしょ、なんてまた冗談っぽく彼女が言った。
暮れかけの公園で彼女は制服のスカート姿のまま、悪戯っ子のようにはしゃいでいた。
鈴森さんは時たまそっけない普段の様子にちらりとこういう悪戯な幼さを覗かせるのだが、こうもはっきりとそれを見せられるのは初めてで不思議と体の奥の糸がふにゃりとほどけてしまった。
「仁王に聞いたんだけど、昨日俺、楽しそうだった?」
やがて知らぬ間に気をほぐされた俺は自然と彼女にそう尋ねていた。
俺の座る隣のブランコで立ち漕ぎしていた彼女は、ふわりと艶髪を揺らしてこちらを見た。
「うん。違った?」
彼女は漕ぐのをやめたが、相変わらず大きな振り子のようにブランコは揺れている。
「違うっていうか…テニスをしてる時、あまりそういう自覚がないんだ。」
確かに俺は中学3年の全国大会以来、テニスを楽しむことがいかに重要かということを理解したつもりでいた。
高校に上がってから中学の3年間を共にしたメンバーも皆同じようにそれを意識してきたと思う。
そして高校では中学で叶わなかった全国大会連覇という悲願を果たした。
しかし正直俺はテニスを心底楽しめていた自覚はなかった。
楽しくやろう、そう思えば思うほど、あの苦しい入院生活の記憶が蘇ってきて。
「早い話、一度手酷く振られたんだ。テニスに。」
宙に舞う髪のおかげではっきりと見えた彼女の瞳は、相変わらず何を映しているのかわからない。
けれど何故だか酷くその瞳に縋りたくなった。
「鈴森さんは、そういう思いしたことないかい?」
絞り出すように喉からそんな問いを吐くと、彼女はブランコをまた一漕ぎして次の瞬間軽やかに羽ばたいた。
膝丈のスカートが翻るも華麗に着地した彼女はこちらを向くことはなく、いつもの声色で言った。
「ない。絵には、テニスみたいに勝敗があるわけじゃないから。」
当然彼女は俺の期待する答えをくれるはずはなかった。
しかし彼女はくるりとこちらを向くと俺目の前に立った。
「絵は鏡だから。」
「え?」
「裏切らない。ただ心を映すだけ。」
真っ黒な飴玉の瞳はまさしく鏡のようにまっすぐに俺を映した。
そしてきっちりとその瞳を縁取った睫毛が震えたかと思うと、彼女は滅多に見せてはくれない柔らかな優しい微笑みを浮かべた。
「幸村だって、裏切られても嫌いになれないからまだ続けてるんじゃないの?」
そんな彼女の表情は背景の橙色の光が相まって本当に絵画のようだった。
けれど何故か俺はその光に対して自分が恥ずかしいような気になってしまって、顔を逸らさずにはいられなかった。
「…確かにテニスは嫌いじゃないよ。」
少し心が詰まる。
だけどどうしてもこの胸のしこりを取り除いてしまいたくて、ゆっくりと口からなんとかそれを溢そうとしてゆく。
「でも好きというより、俺にとってテニスはやらなきゃいけないことなんだ。…正直、苦痛を伴うものだ。」
あの手術を入院生活をリハビリを乗り越えたからこそ、そんな思いに駆られる。
死ぬ思いをしたのだから死ぬ気でやらなければならない、テニスをする時は常にそんな思いがあった。
だからそれだけの代償を払ってしまっただけに楽しむなんて遊び半分な心を持つことはもう出来ないのだと、本当はずっと前に心の奥でそう答えを出していたのだ。
それを始めた頃はきっと本当にどうしようもなくそれが楽しかったはずなのに。
「幸村が感じる苦痛がどんなのものかはわかんないけど…きっと誰でも何かを好きでいればそれが苦しくなることはあると思うよ。」
そう言った彼女はブランコを囲う手すりをぴょんと飛び越えると汚れを乱雑に払い、鞄を手に取った。
そして今度はいつもの悪戯な顔でこちらを振り向く。
「でも、やめられないんだよね。だって生きがいなんだもん。」
彼女の口からそう紡がれた瞬間、心臓に弾を撃ち込まれたような気がした。
生きがい、その言葉は今まで俺の頭の辞書には存在していなかったかのような衝撃だったのだ。