短編集(2018)
□楽園へと運ぶ舟
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「乗せてもらってもよろしいですか?」
私はおじいさんに声をかけた。
「本当によろしいのですか?」
私は力強く頷いた。
私が乗り込んだ漁船のエンジンをかけたおじいさんは、ゆっくりと前へ進ませる。
「道のりは長いですから、どうぞごゆっくり」
狭い船内には漁船に使われるような道具はひとつも見当たらない。座るところもなかったので、私は三角座りで操縦席を後ろに迎える状態でもたれかかった。
「何のためにやってるんですか?」
これからどこに向かうのか、それはもちろん知っていることだった。けれど、道のりの長さは今知ったばかりで、船のエンジン音と水しぶき、それだけでは重くなってしまいそうな空気を少しでも軽くしようと思った。
「私はもう古稀ですから、体力がなくなってしまって漁師が無理になりましてね」
私の視界には大海原が広がっている。晴れている青い空と、それを反射した青い海。地平線が見える。
「何人ほど?」
「月に一度ぐらいでしょうか?」
おじいさんの顔は見えないけれど、少しばかり気落ちしているような声が聞こえてきた。そしておじいさんは語り始めた。
この漁船が向かう先は、通称"絶海の孤島"と呼ばれる島だ。三百六十度を断崖絶壁に囲まれ、海が静かなときしか上陸ができない困難な島である。昔は人が住んでいた有人島だったらしいけれど、第二次世界大戦で日本軍の基地となり、敗戦後地図から姿を消したその島は、有人島なのか無人島なのか、それすらもわからないという。
何度も向かうおじいさんですら上陸もしたことのない、そんな島に私は向かっている。
人をいじめた者。強盗をした者。犯罪を犯した者。人を殺した者。虐待をおこなった者。様々な悪者が何かに導かれるように、この漁船へと乗り込んで絶海の孤島へと向かう。
現代版島流しといったところか。私もその一人だ。
「あなたはどうして向かうのですか?」
おじいさんの問いかけに私は答えを出さなかった。それは喉の奥深くで引っ掛かり、それ以上上へとはあがってこなかった。
「あとどれぐらいでしょうか?」
「ほら、見えませんか」
おじいさんは右腕を前に伸ばし、人差し指を伸ばした。上を向いてかすかに見えたその指先を私は見たけれど、前を向き直したとき、方角はすっかりと忘れられていた。
灼熱の炎天下。私は何分漁船に乗っていただろうか。気づけば全身から汗が吹き出し、一滴も得ていない水分のせいで頭がボーッとしていた。
やがて漁船は断崖絶壁に近づいた。波は穏やかだけれど近づきすぎると船が損傷するために、百メートルほど手前で停止した。
「着きましたよ」
操縦席から出てきたおじいさんは断崖絶壁からぶら下がる縄でできた梯子を指差した。
「あれを登るといい」
私はボーッとした身体をゆっくりと起こすと、先端へと歩いていく。
今の私にあそこまで泳げる力が残されているだろうか。たとえ泳ぎきれたとしても、梯子を登る力が残されているだろうか。
もう私には立ち止まる力さえも残されてはいないようで、船の先端で身体のバランスを崩し、重力にも逆らえないようで海へと落ちた。あとは泳いで梯子を登るだけ―――。
それから先の記憶は私にはない。泳げたのか。沈んだのか。登れたのか。落ちたのか。生きていたのか。死んだのか。
気づいたときには私はもう沈んでいた。
私は人を騙した。騙して騙して騙しまくった。海の底に沈みながら頭が働く限り考えた。きっと断崖絶壁に梯子などはかかっていない。それはこの灼熱の炎天下が見せた幻想。あの漁船が何故夏だけしか人を乗せないのか、その理由がやっとわかった。そして、きっとここに来た誰しもが島には上陸出来ずに、今でもこの島は無人島だ。
絶海の孤島は楽園だ。悪者だけしかおらず、誰も島民を、新しい移民を責めるものもいない。だから悪者にだけは楽園なのだ。
そんな情報がデマだと気づいたのは、この島が無人島だとわかった今。だけれど、もう手遅れだ。踏み外した道はなかなか元には戻せない。いいや、私はとっくの昔に道を踏み外していた。
これでよかったのだ。