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□Hello
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Hello



 壁にかけられた時計を確認すれば、まだ六時をすこし回ったところだった。


 いつもよりずっと早く、はっきりと意識が覚醒する。カーテンの隙間から朝日が差し込み、冷えた空気がきらきら光る。今日も明け方近くに帰ってきたのだろう、隣のベッドで熟睡している兄を起こさないようにそっと布団を抜ける。布団から飛び出た、目と口が開いたままの寝顔はいつ見てもぎょっとしてしまう。こんな寝顔も可愛く見えちゃうんだよね、と目を細めたのは誰だったか。

 フローリングのひんやりとした冷たさが裸足の足の裏から脳天に突き抜けて、思わず身震いする。昨日の夜履いていたスリッパを探すが何故か見当たらないので(またキー兄あたりにいじられるんだろうな)、ベッドの下に落ちていた靴下を拾う。両足とも履いてから、この靴下が自分のものか分からないということに気付いた。まあ、どうでもいい。



 物音を立てないよう静かに部屋の扉を開けると、リビングの方からカチャカチャという音とともに、ふわりと油の匂いがした。無条件にお腹が鳴る、肉が焦げたおいしい匂い。

 そういえば、と、昨日のうちに宿舎のおばさんが作り置きしてくれていたおかずやごはんをほとんど食べてしまったことを思い出す。おばさんは今日の日中に来る予定なので、冷蔵庫にはレンジで温めるだけのおかずも、とりあえずのキムチも何も無い。つまり、誰かが朝食を作らなければ、僕らは腹ぺこのまま仕事に向かうことになる。絶望だ。しかしいま、鼻に抜ける匂いは確かに「朝ごはん」の匂いだ。

 こんな(僕にとっては!)朝早くから動き、かつ料理を率先してやるような兄はひとりしかいない。



 リビングにそっと入ってキッチンを覗けば、予想通りの兄がいる。いつも綺麗にセットされている髪は、いまはまだ何も手をつけられていないようで、くるくるとうねったままだ。エプロンの下は昨日のお風呂上がりの姿と同じで、兄もまだ起きてからそれほど時間が経っていないことがわかる。フライ返しとフライパンを両手にエプロンをはためかす姿はほんとうに母親のようで、ふいに込み上げる懐かしさにすこし切なくなる。

「キー兄、おはよう」
「わっ、テミナ。早いじゃん」

 てきぱきと動いていたキー兄がびくりと肩を弾ませて振り返った。

 ねぼすけのおまえが珍しい、雪でも降るんじゃないの、なんて意地悪を言いながら、僕の寝癖を手ぐしで整えてくれる。成長したといわれる今の見た目になっても、兄たちはこうして昔と変わらず甘やかしてくれる。この年にもなってちょっと気恥しいけれど、嬉しさとかあったかさなんてものが勝ってしまって、結局受け入れてしまう。

「まだ朝ごはんできないから顔洗っといで。ほっぺたの涎の跡、落としてこなかったら朝ごはん抜きだからね」

 フライパンのふちをフライ返しでコン、と叩いた兄に、返事もろくにせず洗面所に駆け込む。母は強し、とは日本のことわざだったか。蛇口を捻るとキンキンに冷えた水が勢いよく噴き出し、うわあと叫んでしまった。


 冷たさに突っ張った顔でリビングに戻れば、さっきの叫び声は?と聞かれる。なんとなく詳細を言う気にもならず、何でもないよと返す。コンロで湯を沸かす兄の後ろを通り、冷蔵庫を開けると見事に何も無い。右の扉から牛乳を取り出し、お気に入りのマグカップになみなみと注ぐ。僕の朝は一杯の牛乳から始まる。

「おいテミナ、今日は牛乳片せよ」
「いま片そうと思ったのに」
「嘘つけ」

 おまえはいつもそうだ、と悪態をつきながら、トーストは何枚か聞いてくる。三枚、と答えると、朝からよく食うね、と顔をしかめて舌を出す。人一倍美意識が高いくせに、この兄は誰よりも変顔をする。べーっと舌を出し返して、くすくすと笑い合った。
 
 
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