Story
□水も滴るいい女
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「・・・大丈夫ですか」
住吉奏多が彼女ー久保史緒里と初めて話したのは、雨が降り頻る中、公園のベンチに座っていたのを見かけた時だった。
今年大学生となり上京、一人暮らしを始めた住吉が住むマンションの左隣には、現役アイドルが住んでいる。
久保史緒里は美しく可憐な少女だ。
艶やかな黒髪はいつもさらさらとして光沢が見えるし、透けるような乳白色の肌は肌荒れを知らない滑らかさを保っている。
彼女との関係性がお隣さんくらいでしかないが、史緒里の活躍は世の中の流行りに疎い住吉の元にも届いていた。
実際彼女は今や乃木坂46選抜メンバー常連となり、フロントポジションなど背負う責任の大きさは日に日に大きくなっている。
住吉は史緒里について詳しく知らないが、噂通りなら欠点など見当たらない、それでいて驕らず謙虚で人を立てられる性格とくれば、人気を集めるのも頷ける。
そんな美少女が隣に住んでいるのだから、この環境はファンからは喉から手が出るほどに羨ましい状況なのだろう。
かといって、住吉には彼女とどうこうなるつもりもなれるつもりもなかった。
もちろん、史緒里は魅力的な人だと思う。
けれど、立場としてはたかが隣人。そして彼女と話す機会もなければ、関わるつもりがそもそもない。
関われば面倒ごとに巻き込まれるだろうし、そもそも隣に住んでいるだけで仲良くなれるのであれば、彼女を応援しているファンもといガチ恋勢も苦労しないだろう。
ついでに言うならば、異性として魅力的と恋愛感情を持つことは必ずしもイコールで結ばれるわけではなく、住吉にとって史緒里は眺めるのが一番いい観賞用の美少女といった認識だ。
そんなわけで、甘酸っぱい関係とやらを期待する気もさらさらなく関わることもまずなく、ただ隣に住んでいるというだけで接触すらしていなかった。
なので、正直雨の中傘をささずに一人佇む姿を見かけた時は何をやってるんだと不審者を見るような眼差しになってしまった。
行き交う人々が寄り道もせず自宅へと急ぐほどの雨だったというのに、彼女はマンション前にある公園で一人、ベンチに腰かけていた。
(雨の中何をしているんのだろう)
なぜそこに、傘もささず濡れるがままになって佇んでいるのかがわからなかった。
濡れることに抵抗もなく、ただぼんやりとどこかを見ている。
僅かに上向いた顔は血色が悪く、青白くすら見える。
帰ろうとすらしていないのだから、本人が好んでそうしているのかもしれない。他人が口出しするものではないのかもしれない。
そう思って、公園の横を通り抜けようとしてー最後に見た史緒里の顔がどこか泣きそうに歪んだように見えて、住吉はぐしゃりと頭をかいた。
別に、彼女と関わりたいとか、そういう動機はあいにく持ち合わせていない。
ただ、ああいった顔をした人間を放っておくのは、なんとなく良心が痛んだ。それだけ。
「・・・何してるんですか」
他意はない、という意味をできる限り込めてなるべく素気ない声をかけると、水分でずっしりと重くなっていそうな長い髪を揺らして、こちらを向く。
相変わらず、綺麗な顔だった。
雨に濡れていてもその輝きは燻ることもなく、むしろ雨すら彼女の顔を引き立てるようだった。雨も滴るいい女、というやつなのだろう。
ぱっちりとした二重の瞳が、こちらを捉える。
一応、史緒里は住吉を隣人だと認識はしているだろう。たまにすれ違ったりするのだから。
ただ急に話しかけられた事に、そして今まで全く関わりのなかった人間からの接触に、史緒里の瞳にうっすらと警戒が滲んだ。
「奏多さん。私に何かご用でしょうか?」
苗字は覚えられていたのだな、と妙な感慨を抱いたが、同時にこれはおそらく警戒を緩めることはまずないな、とも察した。
流石に、見ず知らずとは言わないものの他人に声をかけられれば、ガードを固めるのも頷けた。
彼女はトップアイドル。いつどこで誰がスクープを狙っているともわからない。
あまり異性と関わりたくないと思うのは自然だ。
「特別な用があるわけではないんです。ただ、この雨の中一人でこんなところに居たら気になってしまうと思うのですが」
「そうですか。お気遣いはありがたいですが、私はここに居たいから居るんです。私のことはお気になさらず」
警戒心剥き出しの尖ったような声ではなく、飽くまで柔らかく、それでいて内側に入れる気は更々ない淡白な声だった。
(そりゃあ、そうですよね)
訳ありなのは明白で、関与してくるなという拒絶の現れに、住吉も深追いする気はなかった。
彼女がここに居たいというなら、別にそれでいいだろう。
むしろ史緒里としてはなんで話しかけてきたんだ、といった感情が湧いているはずだ。
儚げな美貌が鬱陶しそうにこちらを窺っているので、住吉は「そうですか」とだけ返す。
ここでまだ話しかけていけば確実に嫌がられるので、もう撤退すべきなのだろう。
幸いというか、別に史緒里によく思われようと悪く思われようと関わりがないので、あっさりと放っておいて帰るということを決断できた。
ただ、ここで少女がずぶ濡れになって一人ぼっちで居る、というのも居心地が悪い。
「風邪ひいてしまうと思うので、これ、よければ使ってください。返していただかなくて結構ですので。」
なので、最後にお節介を一つだけ落としていく。風邪でも引かれると何となく寝覚が悪い、そう思ったから今まで頭上に覆っていた傘を差し出す。
彼女に受け取らせた、正しく言えば押し付けた住吉は、彼女の唇が動く前に背を向けた。
足早に離れると、背後から史緒里の声がする。
けれど雨音にほぼかき消されるくらいに小さな声で、住吉はそのままさっさと公園の横を抜けていく。
風邪ひかないといいな、程度に押し付けたせいなのか、最初に無視して通り過ぎようとした罪悪感が少しだけ軽くなった。
彼女が会話を拒んだのだから、住吉はもう関わるつもりはない。
どうせ縁もないし、これっきりになるだろう。
改めて帰路に就いた住吉はそう思っていた。その時は。
FIN