名前のない喫茶店

□オレンジジュースとビスケット
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 オレンジジュースとビスケット





カランコロン

恐る恐る扉を開けた女性は、店内を見回した。
カウンターと、窓際に2人がけの席が数卓。

閉められた窓は光を通し、
店内に影を作っている。

喫茶店と呼ぶには少し広すぎる印象。

店員の姿がないことに、女性は不安を覚えた。


…あー!ちょっと離してっ、ほら、お客さんやから。


遠くで声が聞こえ、トン、トン、トン、と、階段の音がする。

女性は、ちゃんと営業していたことに安心し、降りてくるであろう店員さんを待った。

「すみませんっ…お客さん、少ないもので、、」

「あ、いえ…」

目を細めて笑いかけた店員さんは、
身長はそこまで高くないものの、すらっとした立ち姿はスタイルが良い。
長めの髪の毛をゴムで縛りながら歩くその仕草は、どこか色気を醸し出しており、女性はじっと見入ってしまっていた。

そして、店員さんは椅子にかけてあったエプロンを着け、パタパタとキッチンに入っていった。

…お好きなところにどうぞ〜!

キッチンの中から聞こえた声。

入り口で突っ立っていた女性は、その言葉に少し戸惑いながら、ゆっくりと窓際の席へ向かった。



「どうぞ。」

机の上に水が置かれた。
店員さんは女性に笑いかけた。

「ご注文は、お決まりですか?」

その言葉に、女性はまた戸惑った。

「あの…えっと、何がありますか?」

その言葉に店員さんは、あ、せやったな、と照れ笑いをした。

「何でも好きなものをお持ちします。でも、おすすめメニューは“おまかせ”です。」

「好きなもの…ですか。」

女性は少し迷って、おまかせでお願いしますと言った。



店員さんがキッチンに向かって数分、
ぼんやりと外を眺めていた彼女のそばに、
どこからともなく現れた子どもが立つ。

「おねえさん」

「え?、あ、なぁに?」

子どもが来たことに全く気づいていなかった彼女は、驚きながらも椅子を降り、子どもに目線を合わせた。


「ごめんなさいって、いってる。」

「え?」

「おねえさんに似てるひとが、ごめんなさいっていってんで?」

「えっと…あなたは、、」

女性の問いに答えず、
子どもはコホコホと苦しそうに咳をした。

「大丈夫?」

女性は、子どもの背中を優しくさすった。

「ケホッ、、おねえさん、おなまえは?」

「私?凪咲。渋谷凪沙。」

「なぎさ…あのね、しゅうってひとが、、」

「なぁ、美優紀まだ〜?…あ、こら、夢莉、何してんねん。」

子どもの言葉を遮るように、先程の店員さんとは違う声がした。

凪咲は声の方に目を向ける。

ギシギシと階段を鳴らして降りてきたその人は、凪咲の前の子どもを見つけ、夢莉と呼んだ。

「ゆうりちゃん?」

「うん。」

目の前の子どもが夢莉だと知った凪咲がそうやって呼びかけると、夢莉は嬉しそうに笑った。

「夢莉、こんなとこ居たら美優紀に叱られるで。部屋戻ろ。
…すみません、、。」

凪咲はその人の言葉で、さっきの店員さんが美優紀だということも知った。

美優紀とは雰囲気の違う、だけどどこか似ているその人は、キリッとした目をしていて、少し威圧感がある。

その人は、ほら、おいで、と夢莉の手を取り、気まずそうに凪咲に会釈し、夢莉を連れて階段を登って行った。


「お待たせしました。」

美優紀の声がして、凪咲が顔を上げる。

美優紀の細くて長い指に見惚れていた凪咲は、机の上に置かれたものを見て息を呑んだ。

「オレンジジュースと、ビスケットです。
お代は結構ですので、好きなだけゆっくりして行ってくださいね。」

美優紀の言葉を聞きながら、凪咲はただ、机の上をじっと見ていた。


しばらくして、何かあったら呼んでください、と美優紀が二階へ上がっていき、凪咲は喫茶店に1人残された。



「なんで…これを、、」

凪咲は呟いた。

そして、う、と眉をひそめ、片手で頭を抑えた。

「なぎさ。」

「ん…あれ、夢莉ちゃん。」

さっきの人と二階に上がっていったはずの夢莉は、再び凪咲の前に現れた。

「なぎさ、だいじょうぶ?」

「…うん。」

夢莉のその言葉に、凪咲はニコニコと笑った。

そういえば、と凪咲は、夢莉が戻らないと美優紀に怒られるという言葉を思い出した。

「夢莉ちゃん、戻らんでええの?」

「うん。ケホッ、さやかがぎゅってしてきてくるしいから。」

「さやか…?」

「ケホケホッ」

頷きながら、夢莉はまた苦しそうに咳をした。


「これ、たべへんの?」

凪咲が背中をさすり、しばらくして落ち着いた夢莉は、凪咲の前に置かれた手付かずのビスケットを指さした。

「…うん。もうちょっと後で。」

「ふーん。…よいしょっ」

夢莉は凪咲の前に座って、足をぷらぷらさせ、ただ凪咲の方をじーっと見ていた。

凪咲は、夢莉がさっき言いかけた言葉が気になって、何度か問いかけようとしたが、その度に悲しそうに口を結び、何も言うことは無かった。
夢莉もその後、凪咲に何も言わなかった。


結局凪咲はその日、オレンジジュースもビスケットも口にしなかった。


「ありがとうございました。」

「…すみません、残してしまって。」

「いえ、お気になさらず。また来てくださいね。」

カランコロン

窓から入ってくる日差しが落ち着いた頃
美優紀に見送られながら、凪咲はお店を後にした。


「いっちゃったね。」

美優紀が降りてきて、カウンターの影に隠れていた夢莉がひょっこりと顔を出す。

「うん、、って!夢莉!何してんねん!寝てなさいっ」

美優紀はそんな夢莉を見つけ、叱りながら手を取って階段を登っていった。

「えぇ〜…ケホッ、いややぁ」

「わがままいわんの。咳出てるやん!
ちょっと彩ちゃん!夢莉見ててって言ったやん!」

ばんっと開いた扉の中には、大きなベッド。

そして、美優紀の声でむくりと起き上がって、眠そうに目を擦った彩と呼ばれたその人は、
さっき凪咲に話しかける夢莉を二階に連れて上がった人だった。

「ん…ふぁ、、あれ、一緒に寝てたんやけど。」

彩はそう言い、んーっと伸びをして、おいで、ゆーり、と手を広げた。

そんな彩を拒絶するように、夢莉は美優紀の影に隠れた。

「さやか、ぎゅってしてきて、くるしいもん。」

夢莉は口を尖らせて、彩を睨んでいる。

「え、あぁ…すまん。逃げへんようにって思ってたらつい…次は優しくするから。な?」

どうやら、夢莉がお昼寝から起きてしまったのは、彩が強く抱きしめすぎたかららしい。

「もう…」

そんな2人のやりとりを、美優紀は呆れたように見つめていた。
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