story

□ショートショート
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授業 1

 ハシモトスバルは、廊下側の一番後ろの席で、教壇で延々と続く唾の混じる話を、数学の教科書を見るふりをして黙って聞いていた。彼は、勉強を教わりに来ているんじゃあない、時間を消化させるために学校へ来ているんだと、ボールペンを握りしめてあと十数分の授業に耐えていた。
 ハシモトの席の前では、二時限目にもかかわらず弁当を食べ始めたオザワリョウスケがいるが、その事を注意する人は誰もいなかった。先生は軽く注意しただけで、生徒達は誰一人オザワが弁当を食べている事を知らない、全くの無関心だった。
 その事に限らず、この学校は特にこのクラスは、皆は関心を持ち合うことがなく、生徒と先生も干渉されあうこともなく、成績だけが特別にものを言える場所だ。ある種の桃源郷であることは地域でも有名だ。
 ハシモトは、オザワが弁当を食べているのをからかいたくなって、オザワの背中をボールペンで小突くとオザワは、振り返るなり箸を振りかざして、ハシモトのペンを勢いよく床に叩き飛ばした。それからオザワリョウスケは、前を向いて無心に弁当を食べ続けた。
 ハシモトは、舌打ちをして床に転がるボールペンを手を伸ばして拾うと、ペン回しをして授業の終わりを待っていた。右手でペンを回し続けていたハシモトだが、途中から左手でペンを回し始めた。やはり、手元が狂って彼の手からペンが転がった。
 彼は机の下を覗きながら、手探りで探していたが、もしかすると落ちて、転がっていってしまったかもしれない。ペンを見つけられないハシモトの目の前に急にペンが差し出された。それは左隣りの席にいる、カワカミユカからであった。彼女はにこりと笑いながらペンを差し出していて、ハシモトが、ありがとうと受け取ると、カワカミは黒板をノートに写していた。ハシモトがそのままカワカミのほうをじっと見つめていると、彼女は再び彼に向かってにこりと笑った。
 ハシモトはそれを不思議に思った。この無関心なクラスで初めてコミュニケーションがとれた気になっていた。だが、それっきり彼女は、ただひたすら黒板の文字をノートに写しているだけに戻ってしまった。
 ハシモトは、なんだよとぼやいたが、カワカミがそれに反応しなかったので続けて言った。「ねえ、ちょっと、カワカミさん。」しかし、言葉は突きぬけて彼はまた、無視をされてしまった。「無視しないでよ、カワカミさん。」彼はもう一度だけ彼女の名前を呼んだ。
「何? ハシモト君。授業はもうすぐ終わるよ。」カワカミユカはさっきとは打って変わって大人の表情で、ハシモトを突き放した。「ハシモト君は、いつも授業が早く終わるのを退屈そうに待っているのね。真面目にやれば勉強は楽しいものよ。」
 ハシモトは無関心な人たちの集まりだったこのクラスで、話しができていることに驚いて、彼女がノートと教科書を閉じているのを目を大きく開いて見ていた。間を空けず、すぐにチャイムが鳴り、授業が終わった。彼はそこで目を覚ました。

 ハシモトスバルは目を覚ますとすぐ、違う惑星に迷い込んだような強力な重力を身体に感じた。なんだかよくわからない意識で見えた、チューブを鼻に入れられた自分の姿が布団の中にいるのがわかると、重力が地球の何倍もある惑星は病院のベッドだと気が付いた。
 ハシモトスバルの病室には、ベッドが彼のを含め四つあり、窓側の一つが空いていて、残りの二つは男なのか女なのかわからない年寄りが、同じようにチューブを入れられてすやすやと寝ていた。
 ハシモトの位置から少しだけ見える廊下に時折、見舞い客や、患者、看護士やらが行き交っていた。彼はそれをただじっと見つめ、時を過ごしていた。何も考えずに授業を受けているのと同じように、時間を消化していた。
 十分ほど経ったころ、淡いピンク色の白衣を着た女性看護士が、病室に入ってきた。彼女はやってくるなり、よく訓練された喋り方でハシモトに話しかけた。「ハシモトさん、気付かれましたか?」ハシモトが頷いた。「もう大丈夫ですよ。でも、まだ麻酔が効いてますから、楽にしていてください。奥様は一旦ご自宅のほうに着替えをとりに戻られてますので。」彼女は顔をそばに寄せてゆっくりと言うと、ハシモトは、「ああ」と小さく言った。「おトイレは大丈夫ですか? 今はぼーっとしますけど、あと一時間くらいで麻酔が切れますので、少し痛みます。あまり痛いようでしたら呼んでください。」看護士は、言い慣れた話し方で、点滴を手慣れた手つきで替えると、すぐに病室を出ていった。
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