お題
□たぶんあれは恋だった
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夕暮れ、停滞する風。
ロンドンから暫く離れた下町の、煤でくすんだ家屋たちの壁は、ぼんやりと水色の空気にその存在を任せていた。
金色の髪を布で覆った花売りの少女が、売り上げが奮わなかったか籠に殆どの商品を残したまま帰路に着いている。
近付けば、そこは流石下町の人間…商魂逞しいらしく、颯爽と顔を上げ売り文句をコックニー訛りも隠さずに語り出す。
「お花は要らないか、きれいなお花だよ」
半日も売り歩いた花なのだ、正直綺麗とはとても言い難い色合いを呈している。
こちらが顔をしかめていると、少女は埒が開かないと判断したか、傍らを歩く木戸の方へ愛想を振り撒き始めた。
私は彼を庇うように一歩先に出て、その少女を阻もうとする。
しかし木戸はそれをステッキで小さく制し、いつもの柔らかい微笑を浮かべながら彼女へと語りかけた。
「そっちの籠全部、売ってもらっても構わないかな?」
「え…勿論だけど、そんなに沢山良いのかい?」
「ああ、お土産を持って行きたい人が沢山居るからね、足りないかもしれないよ」
「あ…ありがと、恩に着るよお兄さん!」
木戸は少女に値段を聞いた後、二、三枚の紙幣を彼女へと渡した。
それを受け取った少女は、片手に提げていた籠ごと木戸に花を預ける。
そして、眩しい笑顔を見せて彼女なりに恭しく礼をし、走り去って行った。
「相変わらずですね」
語り掛けるが、彼は淋しげな眼で少女の後ろ姿を追うばかりである。
仕方無く少しばかり憮然としていたら、それに気付いたか私の胸のポケットに一束の花を捩込んできた。
「…ふふ、やっぱり似合いませんね」
困ったように笑いながら、木戸はその細い指先で丁寧にバランスを調える。
まるで悪戯を楽しむ子供の如きその表情は、普段と打って変わってあどけない。
思わず、こちらも苦笑する。
「そう思うならば、お止めになればよろしいのでは?」
「ええ、でも沢山ありますから」
「…お優しい事で」
揶喩するつもりで言えば、すっとその眼を細めて返された。
「…どこも、変わらないのだなあ・と」
それは、きっと、あの時代に底辺を見て来
たからこその台詞なのだろう。
「同情ですか」
「ええ、同情はしますね…けれど我々が救うべくは、我々の国ですよ」
私は私の国の彼等を救わねばならないのだから・と。
迷い無いその言葉に、漸く私は胸に抱いた違和感が拭われて行くのを感じた。
私のただひとりの批判者であり、ただひとりの対等者。
対をなすに相応しき、長州の主魁。
だから彼は我々の国を一番に愛するべきであり、そう有らねばならないのだ。
「それを聞いて、安堵致しました」
「…当然の事でしょう?」
木戸は甘えるように柔らかに囁くと、直ぐに身を翻して、御者と案内人の待つ馬車へと優雅に歩を進めて行った。
刹那、灰の匂いがする霧の露に、濡れた花の香りがふわりと漂った。
そうして、明るいガス灯の元で待ち人にも同様に花を分けるその後ろ姿を、私は数歩後ろで一種妙な心持ちでもって眺めていたのであった。
もう、5年以上も前の話である。
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