お題

□もう少しだけ
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はらり、はらりと紅の葉が降り注ぐ。
ひやりとした風の舞う秋の風景の中、羽織りすら掛けずに白い寝間着を着流して、彼はゆったりと歩を進めていた。

杖を付き、不自由な左足を引きずり歩く音が実に緩やかに遠ざかる。
どうやら、早く帰ろうなどという気は更々無い様子である。
思わず溜め息を零してしまった。

「木戸さん」

呼び止めれば彼は振り返り、婉然と笑む。

「お久し振りですね、如何されました?」

「見舞いに来て差し上げたのですが?」

「近頃は紅葉も鮮やかに色付いて…桜もまたあれはあれで面白いのですけれど」

「貴方、抜け出していらっしゃるとは」

「鈴虫を聴きましたか?今年もとてもうつくしく鳴くのですよ」

「木戸さん」

「見てください、薄の穗がもうあんなにふんわりとしている」

「大概になされよ、話を逸らしなさるな」

「怒っては、嫌です」

叱りつければ、子供のような笑顔。
いい加減仕様の無い人である。

呆れを表情に出してみれば、彼は肩を竦めて言い訳を滔々と並べ立てる。
そして終いには遠い目をしてこう述べた。

「だってね、この國はこんなにもうつくしいのだと、漸く思い出せたのですよ…」

「今まで忘れていた、と?」

草木を愛し、風流を好むといった印象が強く在った為、私はそんなものは信じられたものかと問い返した。
すると、彼はその皮肉にも気付かぬ様子で嬉しそうにいらえを返した。

「ええ」

どうやら、真実らしい。
彼は一つ、紅葉の葉を民家の枝から失敬し、くちづけた。
血のように鮮烈な色彩が、彼の血の気の少ない陶磁の肌の不健康さを引き立てる。
一種倒錯的な美を感じた。

「あの子たちの生きていた頃には―」

紅葉の葉を指先に弄び、彼は私の瞳を哀愁の混ざった彼のそれで捕らえた。
何時もなら彼の唇から他の男の事が零さるるを快く思えない私だが、何故か不快にはならなかった。

これは聞いておかねばならない。
でなければ、終生の後悔になる。

その時私の中の感性の全てが、彼が次に紡ぐだろう言の葉を希求していた。

「あの子たちの生きていた頃には、本当は私ももっと沢山を感じて生きていたのです。風の音を、鳥の…虫の鳴くを、空の蒼さを、花の艶やかさを、命の儚さを…。あの子たちはそれら総ての愛すべき対象を、寿いで私へと伝えていてくれたのです。でも彼らが失われて以来ずっと忘れていた」

「…それが、還って来たと?」

「はい…いいえ、そうではなく」

「では、何なのです?」

「還って来たは、私の感性では無く…彼らなのではないかと思うのです。彼らが、私を迎えに来てくれている。元より、それらの乏しい私ひとりでは、ここ迄この國がうつくしいとは思えない筈なのですから」

嗚呼、それがとても嬉しいのです・と。
彼はにこやかにそう言うと、くるりと踵を返して元のように道を行き始めた。

私はその離れて行く様に危機感を覚え、いつの間にやらかなり薄くなってしまっていた彼の背を抱き込んだ。

「…貴方迄私を置いてゆくことは、決して許しません…生きていなさい、必ずです」

私の我が儘には彼、笑って何も答えなかったが…その瞳に涙が光っていたのが、何よりの答えとなった。

しかし足りない、言質を取りたい。

「よろしいですね?」

仕方無しに念を押せば、貴方は私にそっと身体を預けて。

「もうしばらくだけは…貴方の為に」

声を伴わない吐息だけが、ただ静かにそう私に告げた。

ひらりと、彼の手から紅葉が滑り落ちて道の傍へ舞い降りる様を、私は永久に忘れられないだろうと思いながら眺めていた。








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