小説

□生きてやろうじゃないか
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もう何年も前のこと。

それはとある街。そこにあるのは混みあった道。今は丁度、正午を回ったところで様々な年齢層で入り交えている。そんな様子を一人、とあるビルの屋上で見ている私。何か目的があって見ているという訳ではなく、ただぼんやりと眼下の雑踏を目に映していた。ザワザワとした人の声が酷く煩い。ああ、なんて耳障りな。大したことを話している訳でもないでしょうに、地上から大分離れている此方にまで騒音が聞こえるとは。なんておめでたい人達なんでしょう。

そんなことを思いながら私は屋上の端に近づいた。そこに妨げとなるフェンスはない。そこから、ほんの少し身を乗り出して下の様子を覗き込む。思っていたよりも幾分この建物は高いようだ。

「此処から飛び降りれば死ねるでしょうか……」
 
いつも変わり映えのしない生活に私は飽々していた。どうでもいい世界。心から信頼を持つことのできない、まして友人とも言えない周りの人々。関わる度に気が滅入ってしまう。そんなもの、何もかも投げ捨てて自由になりたかった。もう、疲れてしまった。遺書なんて書いたとしても読んでくれる人などいないでしょうし、これでこの殺伐とした生活を終えられるならば、と。

私は先程よりも少し身を乗り出そうとした、が。

「死ぬのですか?」

不意に背後から聞こえてきた声によって私はその行動を制止したのだった。なんてタイミングの悪い。

「どうなんです?」

再度かけられる問い。声質からして私よりも遥かに幼い年齢でしょう。私は依然そちらを振り返らず口を開いた。

「どうでしょうねぇ。貴方の目にそう見えたのなら、そうなのでは?」

とは言ったものの、実際、自分でもよく分からない。死にたいとは思いましたが飛び降りるつもりはあまりなかったですし。だからと言って生に執着する気はありませんが。

今度は私が問いかける。

「此処から飛び降りれば楽になれると思いますか?」

「寧ろ、痛いんじゃないですか?」

即座に返された言葉。どうやら相手はそれ程まで気にしていないようだった。

「楽になりたいのですか?」
 
「人間関係や変わり映えのしない生活に疲れてしまったんです。もう休みたい」

愚問だった。今の私には世の中なんてどうだっていい。ただ、何故この声の主が私に執拗に話しかけてくるのかだけは気になりましたが。名前も知らない相手は少し考え込んでいるようでしたが、ややあって声を発した。

「なるほど。……でも、本当にいいんですか?」

何が、そう言った私の声は皮肉げな色を称えていた。どうして唐突に話しかけられた上にそんなことを言われなければいけないのか、私には分からない。

「死んだら楽になる?くだらない発想です。私はそうは思いませんね。そんなもの、自己満足にもならない」

声のトーンが瞬時に変わった気がした。また、その声は自信に満ちているようだった。きっとこの子供は今幸せだからそんな綺麗事を言えるのでしょう、と私は然程気に止めませんでしたが。どうやら神とやらは最期まで私を異端者だということを示したいらしい。私は諦めに近い嘲笑を僅かに雫し、どうやってこの子供を追い返そうか思案するが尚も相手は言葉を続ける。その言葉は風に乗るようにスルリと私の元へと届いた。

「だってそうでしょう?どうして疎ましく思う人間のために貴方が犠牲にならなければならないのです。おかしいでしょう」
 
一瞬、時が止まったような錯覚に陥った。私の中で何かがガラガラと音をたてて崩れ落ちた気がした。さっきまであんなに煩かった人混みの喧騒も何処か隔離された世界から聞こえてくるかのようだった。私は後方に振り返り、この時初めて相手を、プライドを視界に入れた。

「自分から死に急ぐなんて愚行もいいところです。貴方は生きなさい。生きて、全てを壊せばいい」

子供とは思えない言動。振り返った先にあったのは太陽の光に照らされた、幼い少年の笑顔だった。その無垢な笑顔には、上手く言葉では表せない何か引っ掛かるモノを感じましたが、この子供の言う通りであるのは確かだった。他人の、しかも疎ましい者のために死ぬなんて、どうかしている。今さっきまで自分のやろうとしていたことが急に馬鹿らしく思えて、私は屋上の端から離れ、階下へ通じる扉へと踵を返した。

「おや。飛び降りないのですか?」

「ええ、世の末を見たくなったので」

「なんですかソレ」

すれ違い様にしれっと答えるとすかさず呆れた声が返ってきたが、先程までとは違う私の声色に気づいたようで少年は満足そうに笑い私の後に続いて階段を降りたのだった。

それが私とプライドの、出逢い。

 


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