小説

□知ってるかい?利口な魚でも溺れることはあるんだよ
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この静寂した室内にいるのは私と鋼の。珍しいことに二人だけ。嬉しくないと言えば嘘になるが今は仕事中。此処で誘惑に負けてしまえば後の中尉の怒気が恐ろしいので我慢するしかない。無理だと思うが。

椅子に座り、机の上の報告書と睨み合っている内に不意に感じたのはなんとも言えない倦怠感だった。ああ、しんどい。だるい。頭はくらくらするし、足下はふらふらする。身体はほてっているし。無性に喉が渇く上、なんだか鼻はずるずるいっている。

………もしかしなくともこの症状は、

「それ、風邪だろ」

「ああ」

「やっぱりな」

「…………なんだ、鋼の。その目は」

私が苦しんでいるというのに絶対に移すなよ、みたいな。そんな怪訝な目をして、冷ややか目線を送ってくれるこの少年。上司は敬うものだろう。

「菌を蒔き散らすなよ、大佐」

「ひどいな、鋼の。私がこんなにも苦しんでいるのに」

「よく言うぜ、この給料ドロボー。日頃の行いが悪ぃんだっての。……ったく、ほらよ!」
 
「うっ!」

「…………あ、」

ぶつぶつと愚痴を溢しながらも鋼のは席を立ち、手際よく私に濡れたタオルを手渡した。

………いや、違う。手渡すというよりも投げた、と言った方が正しいだろう。それを私が熱でぼーっとしていたせいもあり、顔面でタオルを受け止めたのだ。云わば顔面キャッチ。そして水分を含んだタオルは重力によってべちゃりと膝へ落ちる。なんて憐れな。当たった鼻っ柱が地味に痛い。

「おっ、俺は謝らねぇからな!」

如何にも素直じゃない彼らしい返答で私は思わず苦笑する。けれども、こんな無器用な鋼のの優しさに嬉しいと感じる私がいるのは紛れもない事実。私は改めて鋼のが、エドワードが好きなのだと思い知らされる。

「鋼の、」

「俺、悪くねーもん!」

「少しくらい甘えさせてくれたっていいじゃないか、エド?」

「アホかっ!いい大人が何言ってんだ!さっさと仮眠室にでも行って寝てろよ!それに名前で呼ぶんじゃ、」

「駄目なのかい?エドワード。せっかく二人きりなのに」

「っ…!」

「ふふっ、顔が真っ赤だよ」

「た、大佐だって真っ赤だろーが!」
 
私は狭いと自分でも思う。エドワードが断れないのを知っていながら私は彼の名を囁くのだから。私は狭くて卑怯で大人気ない人間だと自覚している。けれど、

「顔、見んなっ」

「どうしてだい?私は見たいのだが」

「風邪っぴきでアホ面な大佐に見られたくないんだよ!」

「でも、好きなんだろう?そんな私が」

「………さあな」

その反面、彼が否定しないところを見ると自惚れてしまう私がいる。しかも茹で蛸のように頬を赤らめているのを見れば胸踊るのも当たり前だろう。自然と口が緩み、感情が出てしまいそうだ。本当に、君は私の期待を裏切らない。だから私は君を呼びたがるんだ。

「頼むよ、エドワード」

「…………看病くらいなら」

「え?」

「看病くらいなら、考えてやるよ…!」

多少の沈黙を破ってそう呟いたエドワード。俯いて表情は見えないが、先程よりも顔を赤く染めていることは容易に想像がついた。

「ありがたく思いやがれ、バァカ!」

「ああ、思ってる。凄く嬉しいよ」

「……あっそ」

そう言いながら帰り支度を始めた可愛い恋人。それに続き私も荷物をまとめようとするが、大佐はソファにでも座ってろ、と一喝され叶わず。彼曰く病人はおとなしくしてろ、だそうだ。やっぱりエドワードは優しい。なにより、いつもの反抗的な態度とのギャップの差が私の心を更に満たす。本当に、
 
「風邪をひいて得した気分だよ」

「…………聞こえてるぞ」

気づかれないくらいに小さくそう呟いたつもりだったが、エドワードを見ると間を置いて睨まれた。二人きりの広い空間だから聞こえて当たり前、か。なんて思考の回らない頭でそんなことを考えていた私。そういえばなんだかさっきよりも体温がぐんと上がった気がする。それに頭がずきずきと痛む、ような………。

「なんかさっきよりも顔赤くねぇか?」

「ああ。目眩がしてきた……」

「熱っつ!大佐、アンタのおでこでパンが焼けそうだぜ!?大丈夫か?」

私の額に手をあて、慌てるエドワード。正直、大丈夫ではない。寧ろこの身体が警告音を鳴らしているのは確かだ。明日になれば中尉の怒号が飛ぶことは目に見えていたが、結局この場を後にするしか選択の余地はなかった。やはり風邪をひいて得することはないと痛感する。そうして視界がぐるぐると回り、ふっと私の意識はシャットダウンされるのだった。

後日、中尉とエドワードからこっぴどく叱られたのは言うまでもない。




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