□きみのためのことば
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広い室内は窓から射し込む緋色の光に満たされていた。

日没前の茜の残光は仄暗く終末を感じさせるけれど、
今はまだ 陽が傾き始めた夕暮れの時。

一番鮮やかな夕焼けの日だった。



図書室に立ち並ぶ背の高い書棚の谷に落ちる影も
室内を照らす光も、まるで水彩のように柔らかくてやさしい。

光が滲むように温かくて、
長い影が落ちた通路の仄暗さと
照らし出す鮮やかな夕暮れのコントラストが、

背表紙を向けて隙無く並ぶ本の姿が、不思議な世界のように うつくしかった。




独りの影が、床の上を長く滑る。

こころの中に居座ったまま晴れない気持ちを持て余した足音は、
綺麗な世界の中で不釣り合いな程 つまらなげに響いた。


ぺたん。ぺたん…ぺたん。
報いのない ゆっくりな足取りの度に上靴の真下から寂しくて、
ちょっと重たい音がするのを聞いていても 楽しくなんてなかった。


足音の真似をして重たげなふりをする影を引き連れて、
彼女は図書室の一番端っこの棚の前に立ち止まる。

生活と日常に関する情報を集めた一角の、料理とお菓子のレシピの棚。

本の隙間に返却予定の料理雑誌を押しこみにかかる。

どうしようもない気持ちは、一緒に此処に置いていって 忘れてしまいたい。

そう思って溜め息をついた時、入口の方から元気な足音が寄って来た。



「何だ、お前も此処に居たのか。探す手間が省けたぜ」


『あ、丸井くん。部活は?』


「今日は全体で休みの日だろぃ。ウチはミーティングあったけど、さっき終わった」



立海大付属中の中でも力の入った練習と栄誉のある全国三連覇で有名なテニス部にも、

週に一度設けられている部活休みの日は当てはまるらしい。
全体練習は無しで、ミーティングと自主練習が中心になるようだ。


丸井 ブン太。
彼はテニス部のレギュラーにしてダブルスプレイヤーで、

自他共に“天才的”の名を口にしたりするボレーのスペシャリストにして――クラスメイトだ。


そんな彼の手には一冊の料理・製菓関連の本が。

彼は無類のお菓子好きに成長期の食欲が重なって、本当に沢山食べるのだ。

食べている間の彼は幸せそうだが、その好きが高じて作る方にも進出したのだろうか。



『丸井くんはもしかして料理、するの?』


「いや?しねぇけど、これはアレだ。料理本ってさ、うまそーなのいっぱい載ってるだろぃ!」


『そっか、丸井くん食べるの大好きなんだよね。いっつもお腹空かせてるってイメージ、あるの』



何でも授業中暇になったら写真を眺めて、
気分だけでも楽しくならないか試したんだそうだ。

先生に見付からないように上手くやるのが難しいんだと悩みを言った彼におかしくなって笑うと、
丸井くんはきょとんとして それから彼も楽しそうに笑った。


彼のふんわりしたカーディナルレッドの髪の上に夕陽が射すと、
金光が散らばって きらきらと燈(ひかり)が集まってくるみたいに見えた。



「それでお前は?料理するのかよ」


『……』


「もしかして、訊いちゃまずかったか…?わり…」


『ううん。実は、ね…作ってほしいって言われたんだけど、忙しくて食べて貰えなかったの…』



いつも購買でお昼を済ませている友達が、
偶には手作りが食べたいと言っていたものだから、

料理があまり得意でなくても頑張って、作ってきたのはいいけれど。

運の悪い事に委員会の用事で忙しくなってしまった彼女に食べて貰う事は叶わなかったのだ。


早起きをして、冷凍食品を使わないように意識して頑張ったお弁当は、
どうする事も出来ずに中身を残したまま放課後を迎えてしまった。


どんなに一生懸命想いを込めたって、最終的に食べて貰えなければ この気持ちは何処へもいけないのだ。

最期に受け取ってくれるのはごみ箱か、明日の自分か家族だけになってしまった。
こんなに寂しい事はない。



そんな話をしたら、ずっと大人しく、やけに真剣に話を聴いていた丸井くんが急に一生懸命になりだした。



「今、まだ持ってるかそれ…!」


『う、うん。あるよ』


「なら俺が全部食ってやるよ。
お前、頑張ったんだろぃ?俺、お前の頑張った弁当、食いてぇんだ」



いつもの笑顔でも、お腹を空かせた時の表情でもない。
ずっと真剣で 力強い眼差しが、真っ直ぐ此方を見ていた。



『ここ、飲食禁止だよ…?』


「大丈夫。ばれなきゃ平気だからな。他に誰も居ねーし、此処一番奥だし。
それに俺、さっきまでガム噛んでた」



本棚の影に腰を下ろした彼は もう臨戦態勢で、
準備は万全だから弁当を出せと言わんばかりだ。

美味しいのかどうかも分からない、ただひとつのお弁当に
そこまで意欲を見せてくれるのは、凄く嬉しい。

彼は行き場を失くした迷子のこの想いを全力で引き取ってくれるのだと言ったのだから。


だからそれに精一杯感謝をして、鞄からオレンジ色の包みを取り出して 彼に差し出す。

彼は丁寧に「いただきます」と殊勝な挨拶をすると、一思いに箸を付けた。







「ごちそーさまでした」


『はい、お粗末様でした』



美味しそうに食べてくれた彼を労って、鞄から水筒を出してお茶を勧めると、
じっと見つめてから「サンキュ」と受け取られる。


燃えるように立ち込めていた夕暮れの光が深くなって 黄昏に変わり始めていた。

蛍光灯の点いていない室内は この世界の流れと同じ色をしている。


その中で。
二人で居るのは不思議だった。

そこまで特別に親しいという訳ではなかったと思うけれど、
二人がこうしているのはとても自然な事のように感じる。

彼といると楽しい。
もしかしたら、今まで意識しなかっただけで気が合うのかもしれない。


そんな風に横顔を眺めていると、
お腹の満たされた想いで一杯になった彼が至福の声で「美味かった!」と言ってくれる。



「なぁ、今度からさ、俺の為に弁当作ってくれ!
部活の後って腹減るんだよなぁー…耐えらんねぇ。いいだろっ?」


『でも私、そんなに上手に作れないし、自信ないよ』



今日のお弁当だって、彼は全部「美味い」って食べてくれたけれど、
美味しい料理だった自信はないからだ。

でも彼はどうしても譲らなかった。



「お前の頑張って作ったもんなら、俺がぜーんぶ美味いって言って 食ってやる」



そうして今度は はにかんだように笑って言った。



「失敗しても、味に自信が無くても、持って来いよ。
美味いって言葉はな、味だけに言うんじゃねーんだよ。
お前が俺の為だけに作ってくれて嬉しいから、言えるんだ!」



黄昏の中に 彼の声が とける。

お弁当に満たされた彼の言葉が
今度はわたしのこころを 一杯にしていく。

食べる事が大好きな彼。
いのちが生きてゆく為に不可欠な事を 愛する彼。

彼は作った人がそこに込めた想いまで「美味い」と言って食べてくれる。

そうして、何だかわたしのこころも一緒に
彼に全部、食べられてしまったような気さえした。


カーディナルレッドの髪が煌めく瞬間も
美味しかった、の言葉も

せんぶ ぜんぶ、忘れられそうになんてないから。




【きみのためのことば】
(この黄昏の端っこで)
(僕の言葉を 君だけに聴いてほしかった)



それはまるで愛の言葉



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