夜も深い刻限に、ひたひたと急いだ足音が通り過ぎる。
狭い小路に溜まった闇の中を掻き分ける様にして走り抜けるのは、履物も履かない素足の女だった。
呼吸も儘ならなくて、縺れてしまいそうな脚を気力を振り絞って働かせている様は、
まるで闇の中で溺れているみたいにだって見えた。
世界は銀色の月の光に蒼白く滲み、月輪は寒々しい無常の様を現しているかの如く人の心を寂しくさせる。
眠らない街のネオンも今はまだ遠くて、せめて大きな通りにでも出られたなら助かると、裏道を駆けているのだった。
「待て待て待て!!今ならまだ赦されるぞ!」
直ぐ後ろの暗がりの中から、男の乱暴な声と革靴の足音が迫って来た。
振り向かなくても解る。それは彼女を追って来た、屋敷のガードマンだ。
ガードマンなんていうのは名ばかり、拳銃や機関銃だって使う荒っぽい職業の奴らなのだ。
捕まってしまったなら、どんなに恐ろしい仕打ちになるか…。
考えただけで涙が出そうだった。
「待てぇ!逃がすか」
『いやだっ…!痛い!』
腕が幾つも伸びて来て、薄ら寒い暗がりの中へと連行しようと掴まれる。
もう取っ捕まってしまう、という所で、ひとつの影が向こうの方で揺れた。
暗くてよく解らないが、それは男で、この町で珍しく着物に袴姿のシルエットなのが見て取れる。
鳴呼、あぁ…懐かしい故郷の気配を身に纏った人。
彼女は郷愁に駆られて思わずその男へと叫んだ。
『何でも致しますからどうか助けて下さい!!』
その刹那、空気が静かに揺らいで、追っ手と彼女の間をすり抜けて行った。
月明かりだけの仄暗い中、白銀に煌めく風が彼女だけを護る様に暴れたのだ。
誰の目にも残さぬ速さで、的確に、確実に、白刃が幾度か振るわれて再び静かに納刀される。
かちん…、と鯉口が小さく音を立てて刃を納めると共に、彼女を追い詰めていた黒尽くめの男達は皆地に伏せた。
目にも止まらぬ速さで抜刀し、忽ちに切り付けて何事も無かったかの如く納刀する。
これこそ抜刀術、居合の剣術だった。
彼のそれは一瞬の芸術の様に過ぎ去った。
そこには華やかさなどなく、ただ切るという一念のみで振るわれる鋭利さが在った。
それでいてしなやかで美しく在る技だ。
「…怪我はありませんか」
月に煌めく刃の素早さに放心していた彼女は、一瞬その声が何処から掛けられているのかさえ解らなくて、慌てて返事を返す。
『は、はい…。貴方様は…?』
「心配無用に御座る。…拙者の事よりも、もっと御自身を大事にしては如何か」
彼の声は低く、古風な言い回しに寡黙さが伺える。
不器用な物言いだが、声音の端には彼女を心配する様な吐息があった。
「先程“何でも致す”と聞き捨てならん言葉がありました。その様な事、拙者だったから良かったものの、むやみに言うものでは御座らん」
この人は初対面どころか、得体の知れない女の身を助けた挙句心配までしている。
彼女は自身の不幸故の荒んだ生き様に、自分自身を大切にするという事さえ忘れてしまっていた様だ。
『有難う御座います、お侍様…。貴方の言葉に救われます』
「宜しければ、聞いてもよいですかな。この様な夜更けに何故(なにゆえ)女子一人で追われていたのか…」
静かに語り出されるのは、彼女の生まれ持った運命によるものだった。
生粋の日本人である彼女は、ある日祖国にて運悪く金持ちに目を付けられて、この国まで美術品と一緒に連れて来られた。
「美術品と一緒に…?」
『目です。目がいけなかったのです。宝石の眼なんて名前を付けられて、収集品扱いにされました…』
言われて覗き込めば、確かにそれは美しかった。
宝石など俗物的な物には疎い方である彼でさえ、その価値は一目で理解出来る。
彼の唇から無意識だろう感嘆の吐息が漏れた。
だたの黒真珠の瞳では無い。どこか仄かに蒼い光を帯びて見える様が、星屑を秘めているかの様だ。
『逃げ出したくて…怖くて、屋敷を飛び出して来たのです』
「鳴呼…ならば行くあてなど、」
『ありません、そんなもの…』
帰る事も出来ず、行く場所も無い。
生きた宝石を抱えて彷徨う、まだあどけなさの残るこの女に彼は無視出来ない何かを感じていた。
心は彼女を求めている。それは受け継がれてきた大泥棒の性か、別の何かか。
けれどどうであれ、もう彼は腹を括るつもりだ。
「そんな屋敷に帰る必要など御座らん。拙者は大泥棒、石川 五右衛門の十三代目。帰る位なら、拙者に盗まれて貰いたい」
そう言った彼はとても美しかった。ふわりとした癖のある猫っ毛の黒髪が夜風に乱されて艶やかで。
纏う香は彼女の祖国と同じ、優美で閑やかさ。
そして闇で生きる者の危うさの様な魅力。
『…貴方が大事にして下さるなら、喜んで貴方の方がいい』
これが十三代目、石川 五右ヱ門と宝物を秘めた少女の出逢いであった。
【花泥棒】
(囲いの中から美しい花を頂戴致す)
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